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錦秋の御岳渓谷・紅葉狩り
に出かけませんか!
~錦秋の御岳渓谷アカデミハイク~
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旧御岳万年橋の跡
御岳万年橋は、多摩川上流域に三つある万年橋のひとつで、江戸から青梅街道を経て御岳山へ参拝した竹村立義の「御嶽山一石山紀行」でも「左右、岩のさし出、もっとも狭き所に架けたり。」とあります。
沢井村横尾と御岳村払沢の間に架橋した高橋で、御岳山参詣者には大事な橋でした。
また、中里介山作「大菩薩峠」の物語の中で、剣鬼机龍之助と侠盗裏宿七兵衛の初の出会いや、橋の下流の水車小屋の与八が、宇津木文之丞の許婚者お浜をさらった橋上場面の舞台となった橋としても有名です。
御岳万年橋の歴史
〇 文政3年(1820年)「御嶽山一石山紀行」より
長さ24間(およそ43.63m)
幅 4尺5寸(およそ1.36m)
橋杭なし 牛馬の通りなし
〇明治21年の皇国地誌「御嶽村」より
長さ22間(およそ40m)
幅 5尺(およそ1.5m)
木製無柱桟橋
天保13年3月(1842年)と安政6年(1859年)
再架する。
〇 昭和55年清水利編「郷土のあゆみ」より
明治31年に架け替え、高橋と改称、大正8年までここにあった。
御 岳 美 術 館
玉堂美術館
玉堂美術館(英語: Gyokudo Art Museum) は、東京都青梅市御岳1丁目75にある美術館。日本画家の川合玉堂の個人美術館である。運営は財団法人玉堂会。館長は小澤萬里子。約300点を所蔵している。
歴史
川合玉堂は1873年(明治6年)に愛知県葉栗郡外割田村(現・一宮市木曽川町)に生まれ、東京美術学校日本画科教授や帝室技芸員などを務めた。1940年(昭和15年)には文化勲章を受章している。太平洋戦争中野の1944年(昭和19年)には写生地だった東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開し、1957年(昭和32年)に死去するまで奥多摩の御岳渓谷で暮らした。
没後には玉堂の個人美術館を建設しようとする声が上がり、香淳皇后を含む多数の団体・地元有志・玉堂愛好家などから寄付が集まった。15歳頃の写生作品から84歳の絶筆作品まで、所蔵作品の大半は寄贈によるものである。1961年(昭和36年)4月に建物が竣工し、没後4年を経た同年5月に玉堂美術館が開館した。
施設
1,500m2の敷地に、鋼金コンクリート造の陳節室と木造の画室、中島健作庭の日本庭園(枯山水)などを有する。建物の設計は五島美術館(1960年)なども手掛けている吉田五十八。吉田は数寄屋建築の第一人者であり、玉堂とも親しかった。建物は飛騨の民家や寺院の回廊などがモチーフとなっている。
アメリカの日本庭園専門誌「SUKIYA LIVING MAGAGINE」は、2016年の日本庭園ランキングで玉堂美術館の庭園を第10位に選出した。
周辺
JR青梅線御嶽駅から徒歩3分。玉堂美術館の眼前には多摩川が流れ、多摩川の左右には遊歩道が通っている。近隣には櫛かんざし美術館、御岳美術館、吉川英治記念館などの文化施設も存在する。
ソース: 玉堂美術館 – https://ja.wikipedia.org
青梅市の玉堂美術館に歌碑建立
山近く水急くしてまのあたり玉堂先生描きたまふや
清水比庵
寒山寺
寒山寺は中国の蘇州にある寒山寺にちなんでいます。書家の田口米舫が明治18年(1885年)に中国の姑蘇城外の寒山寺を訪れた際、主僧の祖信師より釈迦仏木1体を託されました。帰国後、昭和5年(1930年)に小澤太平氏の協力によってここに寒山寺が建立されました。御岳渓谷の遊歩道沿いにひっそりと佇むお堂には、渓谷を散策に訪れた人々が立寄り、鐘をつく姿を見かけます。
出典:青梅市観光協会
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