川越・わくわくウオーキング教室
小江戸川越ウオークⅡ
・蔵造りの町並み
・菓子屋横丁
・仙波川岸史跡公園
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蔵 里 小江戸蔵里(川越市産業観光館)
約120年間の歴史を持つ酒蔵を改装した「小江戸蔵里(産業観光館)」には、川越らしさと本物にこだわる「小江戸川越ブランド産品」、埼玉県内35蔵の日本酒、地場食材を生かした料理や加工品などが集結。
「蔵」の雰囲気を生かしたくつろぎと憩いの空間で、ここにしかない川越の魅力を発信しています。
「見て(酒蔵)」、「買って(お土産・地酒・発酵食品)」、「食べて(地場食材を使ったお食事)」、川越とそして埼玉の魅力を体験できる小江戸蔵里を、ぜひご利用ください。
歴史的・文化的な香りが漂う一番街の蔵造りの町並みと、商業・業務施設が集まるクレアモール。この中間に位置する小江戸蔵里は、観光客も市民の皆さんも楽しむことができる、地域のにぎわいを創造する施設です。
出典:川越市役所
川越大正浪漫夢通り
古き良き大正時代を思わせる情緒あふれる大正浪漫夢通り。通りを歩けば、そこかしこに大正ロマンの風情が漂います。毎日の買い物から、こだわりの逸品、川越観光のお土産などを販売する、個性豊かなお店が軒を並べています。大正ロマンの雰囲気を求めて、テレビや映画の撮影によく使われる商店街です。大正ロマンの風を感じに川越の大正浪漫夢通りへぜひお越し下さい。
出典:大正浪漫夢通り
公益財団法人 山崎美術館
橋本雅邦画伯
橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、画道に勝れ、日本革新の先覚者であり明治時代における我が国画壇の最長老であります。
依って、郷土川越の有志が集まり、明治32年(1899)画宝会を結成し、先生のご力作の頒布をいただきました。
山崎家4代目故山崎豊翁は、同会の幹事として率先活躍するとともに、画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承させたものであります。
併し、子孫としては、社会公益の為、一般に広く鑑賞を仰ぎ、以って美学向上の資料に供するに、如かずと考え、ここに翁の誕生150年を記念し、昭和57年文化の日に山崎美術館を発足いたしました。
より多くの方々のご利用を切にお願いします。
出典:龜屋菓子屋横丁
沿革
1796年(寛政8年)、養寿院の門前町として栄えていた当地に鈴木藤左衛門が、江戸っ子好みの 気取らない菓子を製造したことに始まる。その後、のれん分けで周囲に菓子屋が増えていった。関東大震災以後は被害を受けた東京に代わって千歳飴、金太郎飴、水ようかん、かりん糖など江戸菓子の製造供給を賄い全国に出荷していた。昭和初期には70軒以上の店があった。現在[いつ?]は20数件ではあるが、石畳の風情のある町には伝統的な手法で菓子を作り続けている店舗が並び、ノスタルジックな観光地となっている。
環境省の「かおり風景100選」に選定されている。
2015年6月、店舗のひとつより出火し5棟が全焼した。
アクセス
川越駅-本川越駅-札の辻
東武東上線:川越駅東口より東武バス神明町車庫行きで10分(本川越駅からは5分)、「札の辻」バス停下車、徒歩3分。
イーグルバス
西武新宿線:本川越駅より小江戸巡回イーグルバスで20分(川越駅からは25分)、「菓子屋横丁」下車すぐ。
川越駅から徒歩で約30分。
関越自動車道:川越ICから車で10分。
ソース: 菓子屋横丁 – https://ja.wikipedia.org
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時の鐘・薬師神社
時の鐘
時の鐘は、江戸時代の初期、酒井忠勝が川越城主(1627~1634)のころに建設されたと伝えられています。
その後何度か焼失し、現在の時の鐘は、明治26年の川越大火の翌年に再建されたもので、高さは約16mあります。
平成8年には、環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています。
薬師神社の由来
薬師神社は、以前瑞光山医王院常蓮寺という寺でしたが、明治維新の折に薬師神社となりました。
御本尊は薬師如来の立像で行基菩薩の作といわれています。五穀豊穣、家運隆昌、病気平癒、特に眼病にご利益があるといわれています。
右奥の稲荷神社は、出世、開運、合格に著しいご利益があるといわれています。
成田山川越別院(本行院)
成田山川越別院本行院)は、埼玉県川越市にある真言宗智山派の寺院である。成田山新勝寺(千葉県成田市)の別院で、通称は川越不動。毎月28日には蚤の市(骨董市)で、11月には火渡り祭(柴灯護摩)で賑わう。本尊は不動明王。
歴史
嘉永6年(1853年)石川照温が廃寺になっていた久保町本行院を復興し創建。
明治10年(1877年)成田山川越別院本行院を称する(成田山最初の別院)。
交通アクセス
西武鉄道新宿線本川越駅から徒歩15分
東武東上線川越市駅から徒歩17分
東武東上線・JR川越線川越駅から徒歩約22分
ソース: 成田山川越別院本行院 – https://ja.wikipedia.org
喜 多 院
喜多院は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。
建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。
広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参拝客が訪れる。
ソース: 喜多院 – https://ja.wikipedia.org
武州川越仙波喜多院
国指定重要文化財
川越大師 喜多院案内図
伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。
その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。
正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。
江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(1611)11月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。
江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。
戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。
現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。
1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。
文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。
行幸啓記念碑
2007年3月28日(平成19年)、天皇・皇后両陛下におかれましては、スウェーデン国王陛下・王妃陛下と共に喜多院をご訪問ご視察されました。
左側には、1977年11月10日(昭和52年)に、両陛下が皇太子殿下・同妃殿下として行啓ご訪問下さいました時の記念碑があります。
天海大僧正
(1536~1643)
喜多院第27世住職であり、会津高田(現 福島県会津美里町)出身、江戸時代初期、喜多院を復興しました。
将軍徳川家康公の信頼あつく、宗教政策の顧問的存在として助言を行い、将軍も度々、川越城また喜多院を訪れています。
108歳で遷化(亡くなる)後、朝廷により「慈眼大師」の称号を賜りました。
白山権現
830年(天長7年)慈覚大師円仁が喜多院を創建された時に、天台宗修験道の霊場である白山より、この守護神として白山の神仏の分霊を祀ったと伝えられています。
右道路向かい側の日枝神社は、同じく創建時に、天台宗の本山である比叡山ふもとの日吉大社の神様の分霊を祀った神社です。
天台宗では、人物習合といい、お寺も日本の神様にお守りいただきながら、神仏ともに礼拝し、人々の幸せをお祈りします。
※修験道=神様と仏様の両方の力を得る修行方法
市指定・史跡
中 院
中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長7年(830)慈覚大師によって創立された。元来星野山無寿寺のなかに北院・中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、多聞院と称していたものである。
当初は中院は、現在の東照宮の地にあったが、寛永10年(1633)東照宮建造の祈りに現在地に移されたものである。
喜多院には天海僧正が来住する以前は、むしろ中院の方が勢力をもっていたことは、正安3年(1301)勅願所たるべき口宜の写しや、慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。秋元候の家老太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母加藤みきの墓などがある。
平成4年3月
出典:川越教育委員会
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