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第11回川口ツーデーマーチ
9月23日日曜日
2日目安行ルート
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赤 山 陣 屋
ここは北堀の西端にあたる。右手の竹林の中には水神のほこらがあって、伊奈家の姫と龍にまつわる伝説が残されている。
赤山陣屋の堀
赤山陣屋は、周囲の自然の低湿地を外堀として利用し、その内側に人工の内堀をめぐらせている。陣屋に接する自然低湿地の総延長は約3,000mに及ぶ、深さ概ね10mだが、幅が広いうえに、湿地であったため足場が悪く、堀としての機能を十分備えていたと思われる。
内堀には、東堀・西堀・南堀・南西堀・北西堀があり、総延長は1,800mに及んでいた。発掘調査によりさまざまな形態・規模を持つことが確認されたが、概ね深さ5~6m、上面幅9.5mほどで、堀の内部に塀が建てられていたところや、堀に沿って土塁のあるところもみられる。
中でも最大規模の北西堀は、深さ8~9mで高さ1mの土塁をもち、有事には東部の低湿地から水を引き込んで水堀として使えるようになっていた。自然低地の切れめにあたる部分だったため、このような大規模なものとなったのだろう。また、自然低地の切れる山王社側の東堀が深めにつくられているなど、細かい配慮がそれぞれの堀にみられる。
仮に北側から陣屋内に入ろうとすると、外堀(低湿地)と内堀、そして土塁を合わせ延べ17m下らなくてはならないことになる。これは、5~6階てのビルを階段で上り下りするのと同じか。足場の悪さを加味するとそれ以上の運動量に匹敵する。赤山陣屋を囲む堀の効果は、想像以上のものであったに違いない。
赤山―伊奈氏と赤山陣屋
赤山陣屋を築いた伊奈氏は、そのすぐれた土木技術によって江戸時代の治水・新田開発に大きく貢献し、関東郡代を世襲した家柄である。赤山陣屋は、寛永6年(1629)、3代伊奈忠治によって、ここ赤山の地に築かれた。以後163年間にわたって、在地支配と新田開発の拠点として機能し続けたが、寛政4年(1792)、伊奈家改易に伴って赤山陣屋も廃止された。陣屋の建物や家臣の屋敷はことごとく取り壊され、土地は払い下げられて。以後は田畑や山林として利用された。
ここは陣屋の東南で、左手は東堀である。この堀は本丸と山王社社地とを画している。後方手前の鎮守の森には山王社がおかれている。
この地から雑木林越しに眺める地平線の夕日は、台地に立つ陣屋の貴重な風景の一つである。
伊奈氏の治水と利水―水利事業
近世の土木史上に「伊奈流」の名を残す伊奈氏の事跡は、その支配地であった関東(旧武蔵国、現在の東京・埼玉・神奈川)のあちこちに残されている。
「伊奈流」の技術が十分に発揮されたのは、特に新田開発とそのための河川改修工事においてである。関東地方の現在河川体系の基礎は、数代にわたる伊奈氏の大規模な河川整備によって築かれた。これによって関東地方東部低地□は水害から解放され、広大な穀倉地帯に変貌していった。また、江戸とこの一□とを結ぶ船運も活発化し、新田開発による石高の増加とともに、江戸の繁栄を促すこととなった。
伊奈氏による河川改修
伊奈氏による関東諸河川の改修工事の代表的なものは、利根川の東遷および荒川の西遷である。これは、利根川と荒川の水系をそれぞれ切り離し、利根川を銚子沖に流入させ(利根川の東遷)、荒川を入間川に付け替える(荒川の西遷)という、きわめて大規模なものだった。
「伊奈流」、土木技術(洪水対策)
自然の地形を最大限に利用し、労力を最小限の抑える「伊奈流」の土木技術は、改修河川の洪水対策にも見ることができる。
自然堤防を利用するとともに、ところどころに低い堤防を作り、その付近に遊水地を設ける。大規模な増水の祭には水をあふれさせ、遊水地に導いて水の勢いを弱めてしまう。またこの遊水池は、平常時に溜井となり、用水源として利用することができた。事例として見沼溜井と八丁堤がある。
山王公園 川口市
この公園は、赤山第一子供会育成会のご協力により、清掃、除草を行っております。
みんなの公園です。
きれいにしましょう。
出典:川口市公園課
赤山(伊奈氏と赤山陣屋)
県指定旧跡
赤山城跡(赤山陣屋址)
昭和36年9月1日指定
赤山陣屋は、関東郡代伊奈氏が江戸幕府の直轄地を治めるためその任地に設けた役所の一つで、寛永6年(1629)頃伊奈家3代忠治によって創建されたものである。
陣屋の構えは、右図の通りで、約2万4千坪の広さがあった。
陣屋の中核部には、表御門・裏御門・御家彩・御役家・御的場といった施設があり、北側と西側は二重の堀でかこまれていた。
外堀では水があり、内堀は空堀で、この内側には土塁が築かれていた。また東側には山王三社と家臣団屋敷、南側・西側にも家臣団屋敷があった。この屋敷は、堀の内に17、外に41あり、その他に門番屋敷などもあった。屋敷の規模は1町前後のものが一番多かった。
陣屋の内外の道路はT字路で直角に曲がっているものが多く、その両側には家臣団の屋敷や社寺が配置され、赤山陣屋はあたかも小さな城下町のようであった。社寺には、山王三社といわれる山王社・八幡社・天神社と、伊奈家の菩堤寺である源長寺があった。
なお、伊奈家は、寛政4年(1792)12代忠尊の時、幕府政治の変化と家中の騒動がもとで改易され、赤山陣屋も廃止された。このため陣屋の建物や家臣団家族は取り壊され、赤山陣屋も廃止された。今は空堀と社寺を残すのみである。
昭和54年3月
出典:埼玉県教育委員会
川口市教育委員会
赤山日枝神社 御由緒
川口市赤山二一八
□御縁起(歴史)
寛永年間(一六二四-四四)に関東郡代の三代伊奈忠治が構えた赤山陣屋は、寛政四年(一七九二)、十二代伊奈忠尊が失脚するまで、関八州の貢祖の微収並びに司法、利根川・荒川の改修、新田開発など土木治水を行う中心的な役所であった。
この陣屋は延べ面積二十三万四千坪にも及ぶ広大なもので、この中に当社をはじめ天神社・八幡社・御陣山稲荷社などが祀られていた。当社は、陣屋の東側空堀外の山王町廓の地内にある山王池に面した築山に鎮座する。
この築山は、陣屋空堀削時の廃土で築いたと伝える。
創建は伊奈氏によるものと考えられ、恐らく江戸城鎮護の日枝神社から分社し、陣屋の守護として祀られたものであろう。
『風土記稿』には陣屋廃止後の当社について、「二百年来草創せし地と見ゆ、神体昔は七体ありしが、伊奈氏断絶の時失たりと云、其頃は大橋多門或は川鍋左門など云し神主ありしが、今は領家村神明院の持となれり」とある。ちなみに、神明院は玉林院配下の本山派修験である。
なお、陣屋内にあった八幡社や天神社は現在号祀されて当社境内にある。
殊に八幡社は、七代伊奈忠順が建立した宝永四年(一七〇七)十一月の石祀銘文によると、五代伊奈忠常が寛文十三年(一六七三)七月に子孫繁栄のため創建した旨が記されている。
□御祭神 ・大山咋神
□御神徳
・産業発展・成長発展・商売繁昌・家内安全
・厄除 ・安産 ・縁結び
□御祭礼日
・歳旦祭(一月一日) ・夏祈祷(五月十五日)
・秋季例祭(お日待ち・十月十四日)
安行観光マップ
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