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坂戸ウオーキングクラブ
第179回例会 寺社めぐり
②ウオーク 12㎞
2019年1月26日(土)
大 堂
本堂に安置された阿弥陀如来坐像は、高さ約90㎝の木造で平安時代後期の作と思われる立派な尊像である。
また、堂前の梵鐘は暦慶3(1340)年の鋳造で、学僧として名高い鎌倉は建長42世中岩(円月)撰文の鐘銘により名鐘として誉れ高く、古来文人墨客の杖をひくところとなった。
鎌倉時代以前は七堂伽藍に十二の脇坊を備えた大寺であった大堂も、永禄4(1561)年上杉謙信による小田原攻めのとき兵火にかかったと伝えられ、いまはわずかに本尊と梵鐘に往時の面影をしのぶにすぐない。
平成5年2月
板橋区教育委員会
東京都指定旧跡
松 月 院 大 堂
所在地 〒175-0092 板橋区赤塚6丁目40-7
指 定 大正14年15月
この地域は江戸時代は江戸幕府の直轄地(幕領)であり、豊島郡峡田領下赤塚村に属していた。大堂とはここでは阿弥陀堂のことで、「新編武蔵風土記稿巻之十四」によると、南北朝の建武・延元の頃(1334~40)は、七堂伽藍をそなえた大寺院であったので、村人は大堂と称していたという。永禄4年(1561)3月長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政を奉じて北条氏康を小田原に攻めた際に、堂宇ことごとく焼き討ちにあって消失したと言われる(注釈、その大堂が上杉謙信に焼かれたとき、火の中から本尊阿弥陀如来が出現し、八幡社傍らの古木に止まった、という記述が見られます)。 ちなみに大堂のあるこの丘は、実は古墳といわれている。
文化11年(1814)2月に大堂を訪れた小石川本法寺の老僧十方庵敬順は、「往還の西角にして小高き処にあり、則ち石段を登る拾四五段、本尊は坐像の弥陀、御丈弐尺四寸五分ばかりと覚ゆ」と紀行文『遊歴雑記』に書いている。
東側の八幡社は、江戸時代から下赤塚の鎮守社で、明治初年の神仏分離令によって神社の参道から右は八幡社、左は大堂と分けられている。
南北朝の暦応3年(1340)鋳造の梵鐘と鎌倉時代末期の制作と言われる本尊阿弥陀如来坐像はともに有名で、江戸市中からの参詣客が絶えなかったと言われている。
平成13年3月31日 設置
出典:東京都教育委員会
松 月 院 大 堂
本堂に安置された阿弥陀如来坐像は、高さ約90センチの木像で平安時代後期の作と思われる立派な尊像である。
また、堂前の梵鐘は暦應三(1340)年の鋳造で、学僧として名高い鎌倉は建長寺四十二世中岩(円月)も撰文の鐘銘により名鐘として誉れ高く、古来文人墨客の杖をひくところとなった。
鎌倉時代以前は七堂伽藍に十二脇坊を備えた大寺であった大堂も、永禄四(1561)年上杉謙信による小田原攻めの時兵火のかかったと伝えられ、いまはわずかに本尊と梵鐘に往時の面影をしのぶにすぎない。
平成5年2月
出典:板橋区教育委員会
松月院の八名勝の碑
【新東京八名勝】
1932年に報知新聞社が東京市拡張を記念する目的(隣接五群八十二か町村の編入によって、東京市はこれまでの十五区から三十五区になった。この時の人口は約500万人)と報知新聞社の新聞発行二万号の記念とを兼ねて行った。
選定方法は広く市民から募集し、投票によって決められた。この時の投票数は850万以上あった。そして、第一位は池上本門寺で、755,614票だった。その時選定されたのは次の八名勝である(区名は当時のまま記載)。池上本門寺(大森区)、西新井大師(足立区)、北品川 天王社(品川神社)(品川区)、日暮里 諏訪神社(荒川区)、赤塚の松月院(板橋区)、目黒の祐天寺(目黒区)、洗足池(大森区)、亀戸天神(城東句)。
【新東京一六景】
その時に当初にはなかっら新東京一六景も同時に選ばれた。
雑司ヶ谷 鬼子母神の森(豊島区)、大井の大仏(品川区)、水元の水郷(葛飾区)、奥沢の九品仏(世田谷区)、新井薬師(中野区)、柴又帝釈天(葛飾区)、目黒不動(目黒区)、篠崎堤の桜(江戸川区)、堀切の花菖蒲(葛飾区)、善養寺の松(江戸川区)、哲学堂(中野区)、三宝寺池(板橋区)、大宮八幡(杉並区)、滝野川の渓流(滝野川区)、丸子多摩川の丘(大森区)、豊島園(板橋区)である。
松月院のヒイラキ
樹種、ひいらぎ(モクセイ科)。樹高、約10m。目通り、約270㎝。根回り、約310㎝。樹齢、約100年(推定)。
ヒイラギは厚い常緑の葉の鋸歯(ぎざぎざ)が鋭く、さわるとひいらぐことから、この由来が出ている。ヒイラギの小枝と鰯の頭を節分の門辺にさし、鬼の侵入を防ぐという習俗は最近までみられる。また、ヒイラギの葉は若木では鋸歯が鋭く、古木になると鋸歯は消滅して全緑となり丸くなることから、人間の成長の過程を象徴するとの説話も残る。
松月院のヒイラギは、上部の樹冠の葉は丸く、下部の若い枝の葉は尖った鋸歯をもっている。このような説話の葉の特徴を備えた古木は区内には珍しい。
平成6年度、板橋区登録文化財の天然記念物(名木・巨樹・老樹等)とした。
平成8年3月
出典:板橋区教育委員会
高島秋帆先生紀功碑
紀功碑は、別名火技中興洋兵開祖碑とも呼ばれ、ここ松月院に本陣を置き、徳丸原で日本最初の本格的な西洋式砲術を指揮した。高島秋帆を顕彰する目的で大正11年12月6日建立された記念碑である。
高島秋帆は、寛政10年長崎町年寄の名家に生まれ、長じて出島のオランダ人より西洋の砲術を学んだ。天保11年、中国清国と英国との間で阿片戦争が勃発し、西洋の進んだ軍事技術に清国が大敗すると、その危惧が日本に及ぶことを恐れた高島秋帆は、天保上書を幕府に上申、日本の従来からの砲術技術の変革を唱え、西洋列強諸国に対する防備の一環としての西洋式軍事技術の導入を説いた。
天保12年5月7日~9日までの三日間、高島秋帆は赤塚の朱印寺として名高い松月院に本陣を置き、門弟100名と紀居を共にしながら、現在の高島平、徳丸原にて様式砲術訓練を公開し、世にその名声を得たが、間もなく讒言にあい永牢に繫がれた。
嘉永6年夏、11年に及ぶ幽閉を解かれた高島秋帆は、江戸幕府の肝入りで講武所を開設し、支配及び師範に出仕し幕府あるいわ諸藩の西洋式軍事技術普及に貢献した。慶応2年正月江戸小石川にて69歳の生涯を閉じた。日本陸軍創設者一人として名高い。
紀功碑は、安政4年に鋳造された銅製24斤加農砲を碑心に火焔砲弾4発を配した大理石製の台座にのせた特異な形をとり、砲術に長けた高島秋帆を象徴する。総高6m。
平成26年度区登録文化財
赤塚山 乗蓮寺
乗蓮寺は、東京都板橋区赤塚五丁目にある浄土宗の寺院。東京大仏があることで知られている。「東京大仏」は当該寺院の異称にもなっている。毎年初詣には、周辺住民及び高島平団地居住者も多く参拝し、板橋区内でも随一の賑わいを見せる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
乗蓮寺 東京大仏(本尊)
応永年間(1394年 – 1427年)に了賢無的が山中村(現在の板橋区仲町)にて人々に教えを伝えるために創建したと伝えられている。その後、江戸時代の初期のころまでに板橋区仲宿に移転した。当時は孤雲山慶学院乗蓮寺と称していた。後に慶学山乗蓮寺になった。当寺院は、郷主・板橋信濃守忠康の菩提寺になるなど人々から信仰を得ていた。天正19年(1591年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進され、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となった。また八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われた。その後も長く仲宿の地にあったが首都高速道路の建設と国道17号の拡幅により、昭和48年(1973年)に現在の赤塚の地(赤塚城二の丸跡)に移転した。山号も赤塚山と称した。そして1977年(昭和52年)、かつて東京を襲った関東大震災や東京大空襲など、悲惨な震災や戦災が再び起きないよう願いを込め当寺院の代名詞にもなっている東京大仏が建立された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東 京 大 仏
この大仏さま(阿弥陀如来)は、当山住職二十三世正誉隆道が、昭和49年88才にて発願、完成まで約3年の歳月と延べ3500人の手によって昭和52年4月完成をみました。
千葉氏の居城であったこの赤塚城二の丸址に乗蓮寺を建立するにあたり、千葉氏一族、戦没者、そして有縁無縁の霊をとむらい、世界の平和と万民救済の願いがこめられております。
奈良、鎌倉の大仏に次ぐ東京大仏です。
合掌して南無阿弥陀仏と十遍となえましょう。
材質 青銅(ブロンズ)製
重量 32トン
座高 8.2メートル(頭部3メートル)
蓮台 2.3メートル
基壇 地上2メートル、地下1メートル
赤塚トンボ池
全体図
トンボ池▭部拡大図
オオシオカラトンボ(メス) | アキアカネ(オス) |
リスアカネ(オス) | アオドウガネ |
ゴマダラチョウ | オンプバッタ |
ニホンカンヘビ | ヒカゲチョウ |
トホシテントウ | アズマヒキガエル |
アメリカザリガニ |
湧き水のビオトープ(biotope)
昔の赤塚ため池には、湧水が流れ込み、ヨシやカマが茂り、生きものがいっぱいいました。
そんな自然を再生しようと1999年春に区民参加で作った小さな土の池が赤塚トンボ池です。
池の水は赤塚城址の台地から湧き水を引いています。
この池にトンボやカエルがやって来て卵を産み、小さな虫などを食べて育っていく。
そんな生き物たちの小さな宇宙が広がっていくことを願っています。この場所が壊れないようにそっと見守ってください。
(写真はこの池で見られる生き物たちです。)
雨水をお庭で活用しましょう。
庭の草花や家庭菜園の水やりに
車の掃除等雑用水に
災害時用に、雨水を活用しよう!
節水、水道料金の節約になります。
雨水のタンクの設置に補助金が交付されます!
お願い
・フェンスの中に入らないでください。
・生き物を取らないでください。
・池の中に動植物を入れないでください。
(コイ・カメ・ザリガニ・キンギョ、生き物を入れると自然が壊れます。)
出典:板橋区資源環境部環境政策課
ビオトープ管理:ボランティア団体「いたばし水と緑の会」
自然と歴史と文化の里・赤塚
臨済宗 建長寺派 福田山 東明寺
東明寺は、埼玉県和光市白子にある臨済宗建長寺派の寺院である。山号は福田山で、東明禅寺とも呼ばれる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金 泉 寺
筆塚とは江戸時代に寺子あるいは塾を開業した師匠(先生)の墓を、弟子または塾生が供養のため建立した碑で、筆子中・筆徒中・筆塚等の文字が刻まれているものは、これに類するものである。
この碑は当寺の住職武笠台岡師(1810-1878)のもので、その弟子たちが報恩感謝の念をもって建立したものである。
碑には師匠が次のようなことを述べている。
病に伏して久しく、まもなく命も終わるであろう。
自分の石塔を建てなければと考えていたとき、筆徒二百余名が浄財をあつめて、この碑を建てて私をよろこばしてくれたと。
そして自ら碑文を撰び、寿塔として、生前に建立されたものである。
師は上新倉村、下新倉村を中心とした有志の少年たちを集め、寺を解放して、読み・書き・算数を無報酬で教えたものである。
出典:和光市教育委員会・和光市文化財保護委員会
長 照 寺
(上新倉村)長照寺
境内一丁四方、年貢地、其中二反歩許、見捨地、小名添代にあり、新義真言宗、豊島郡石神井村三宝寺の末、本堂六間に九間、光明山観音院と云、本尊は十一面観音、開山開基詳かならざれど、墓所に寛永中の碑あれば、其以前の草創なるべし、宝暦七年法流開山の時より色衣の寺格になりしと云。(新編武蔵風土記稿より)
名 称 大いちょう
イチョウ科 指 定 昭和34年7月13日
落葉 高木 所有者 長 照 寺
幹廻り7.5m 樹高約29m
樹齢推定7百年(指定当時)
和光音頭の一節に「ハアー空を抱えたあの大銀杏、雨やあらしに堪えてきた……」と唄われている。この大いちょうは、枝張り根張りともによく、根の先は、坂下公民館あたりまで達しており、樹乳
もみごとである。以前は、その樹乳を煎じて飲むと乳がよくでるといわれ、地元の人達が服用したとのことである。県内でも有数の大木で秋の黄葉の時期は黄金色で覆われ、まことに雄大かつ美事な景観である。また、300㌔を超える量の銀杏を実らせる。700年というのは、鎌倉時代にあたりそれ以来現在まで新倉はもとより近郷の人々の生活や歴史を見つめつづけてきた生き証人と言えよう。
昭和54年1月15日
出典:和光市教育委員会
和光市文化財保護委員会
和光市指定文化財 旧冨岡家住宅
旧冨岡家住宅はこれまでの調査などから、江戸時代中期の17世紀後半に建築されたものといわれています。
昭和63(1988)年に東京外郭環状道路の建設に伴い、旧冨岡家住宅は部材として解体保存されました。
平成15(2003)年11月3日に和光市の指定文化財となり、平成17(2005)年2月より復元工事が開始され、翌平成18(2006)年3月に完成しました。
新倉ふるさと民家園
新倉ふるさと民家園は、和光市指定文化財「旧冨岡家住宅」の移築復元後、平成18年6月17日に開園しました。
この旧冨岡家住宅は、およそ300年前に創建されたと推定され、埼玉県内で最古の部類に入る歴史的価値の高い建造物です。東京外郭環状道路建設に際し、解体を余儀なくされましたが、所有者の冨岡氏から部材の寄付の申入れがあり、市は旧冨岡家住宅を移築復元しました。
現在は、新倉ふるさと民家園として一般公開しています。
民家園の敷地はおよそ2000平方メートル(約600坪)です。園内には茅葺き屋根を持つ「旧冨岡家住宅」をはじめ、潜り門・納屋風管理棟・蔵風ポンプ室等の建造物と、畑・池などがあります。
また、谷中川縁に自生していたヒロハアマナをはじめ、里山を意識した植栽、茅葺き屋根棟に植えられているアヤメ、池に生息するメダカなど、たくさんの植物や生き物が生息しています。
囲炉裏のある主屋に一歩足を踏み入れると、新倉地域をはじめ、和光の四季折々の暮らしぶりを体感することができます。
是非一度足をお運びください。
出典:和光市
新倉ふるさと民家園(旧冨岡家住宅)
場 所 和光市下新倉2丁目33番地1号
敷地面積 2000㎡
園内建物 主屋(和光市指定文化財 旧冨岡住宅)
納屋風管理棟一棟 物置一棟 蔵風ポンプ室一棟、
井戸小屋一棟、潜り門一棟
着 工 平成17年2月25日
竣 功 平成18年3月24日
ЖЖ 利用案内 ЖЖ
◎火気厳禁
◎ペット持込不可
開園 時間 午前9時~午後5時(㋃~㋈)
(㋉~㋂は午後4時半)
休 園 日 毎週水曜日
毎月第4木曜日・第4金曜日
年末 年始 12月28日~1月4日)
和光指定文化財(建造物)
旧冨岡家住宅
指 定 平成15年11月3日
大きさ 桁行 9間1尺×梁間 5間(16.66×12m)
床面積 45坪(151.98㎡)
構 造 木造茅葺寄棟平屋建て
和光市新倉2丁目3179番地
昭和63年(1988)7月、東京外郭環状道路建設に伴い、旧冨岡家住宅は解体され、同年9月に冨岡氏から和光市へ解体部材一式が寄付された。
和光市教育委員会では、建造物調査と部材調査を行い、その結果から旧冨岡家住宅の創建時期は17世紀後期(江戸中期)と推定され、埼玉県内では最古の部類にはいる。
主な特徴は、床の間がないこと、ザシキは三間四方の九間づくりであり、祭壇が奥行きの浅い押し板であること、外壁に戸口が少ないこと、また土間柱などの柱を内部に多く建てるなど素朴な造りで、蛤刃の手斧痕が残る柱があることなどがあげられる。
関東の同時期の農家としては、最大規模を持ち、大きさと相まって歴史的価値が非常に高く貴重な建造物である。
平成18年3月24日
出典:和光市教育委員会
和光市文化財保護委員会
地 福 寺
(下白子村)地福寺
境内除地、七段九畝余、村の東北の端にあり、瑞應山地蔵院と号す、天台宗、入間郡小仙波村喜多院の末寺なり、開山開基詳ならず、総て舊記等回禄の災に罹りければ、傳ふる事跡なしと云、本尊も古は地蔵尊なりしが、彼火災の時より別に収め置、今は釈迦を本尊とせり、按に当寺の鐘の銘を見るに、古鐘は寛文年中十世の住僧珍海法印の時戌しを、後破壊しければ延享中新に鋳しと云ば、其時代古きこと推て知るべし、又此近村庄忠右衛門が所蔵の文書に、当寺の僧の事を記せり、此書は永禄中のものと見ゆれば、是等をもて思ふに舊き寺なるべし。
本堂。九間四面東向、門も同じ向ひて、前に十級余の石階有。
鐘楼。門を入て左の小高き處にあり、鐘は延享年中鋳直したれども、古銘を勒せり。(銘文省略)
光西坊。鐘楼の後墓所の側にあり、小庵なり。
塔頭。久城寺、萬正寺。以上二寺は、何の頃よりか廃寺となりて名のみ残れり。(新編武蔵風土記稿より)
武州白子熊野神社
熊野神社は、白子の鎮守さまとして栄えてきた。発祥は不明であるが、社伝によると、およそ1千年前といわれている。
祭神は伊弉冉命、健御名方命、速須佐男命、速玉男命、事解男命、倉稲魂命とされ、また、境内神社として、冨士嶽神社、國平神社がある。
中世、熊野信仰は、全国的に武士や民衆の間にひろまった。熊野那智大社(和歌山県)に伝わる「米良文書」の中の「武蔵国檀那書立写」には、多くの武蔵武士とともに「しらこ庄賀物助、庄中務丞」の名があり、和光市域の白子に居住していた領主にも、熊野信仰が伝えらていたことがわかる。
平成7年1月
出典:埼玉県
和光市
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