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和光・富士見市の満開の桜
地域密着型特定施設
入居者生活介護ケアハウス桜の里
寄贈 桜の里 竣功記念
しだれ桜
ぐるっと埼玉サイクルネットワーク
⑱新河岸川の自然歴史を訪ねるルート
ルート解説
新河岸川沿いの遺跡・歴史的建造物を巡るコース。新河岸川に整備されているサイクリングコースと国道254号BPの自転車道を走行し、田園風景を見ながら、古代から近世までの歴史を訪ねる。「ジモトのおやつ」を紹介したガイドブック有ります。
みどころスポット
① 志木市立秋ヶ瀬運動公園 | ② 難波田城公園 |
③ 水子貝塚公園 | ➃権現山古墳群 |
⑤ 福岡河岸記念館 | ⑥ 上福岡歴史民俗資料館 |
⑦ 桜堤 | ⑧ コスモス |
難波田氏館跡入口
企画展 難波田城資料館 特別展示室 入場無料
平成史㏌富士見
3月9日(土)~6月9日(日)
難波田氏の歴史と難波田城
平安時代の終わり頃から、武蔵国には「武蔵七党」と呼ばれる武士団が活動していました。その一つの村山党の中心に、金子氏がいました。金子小太郎高範は、鎌倉時代の承久の乱に参戦して討ち死にしました。その恩賞として幕府から、高範の子孫に難波田(南畑)の地が与えられ、その子孫が「難波田氏」を名乗るようになりました。
南北朝時代には、羽祢蔵合戦で高麗経澄の運勢と戦って敗れましたが、戦国時代になると難波田弾正善銀が扇谷上杉の重臣として活躍しました。しかし、天文15年(1546)の河越夜戦で北条氏と戦い、敗れて打ち死にしました。その後、難波田氏一族は北条氏の家臣となり、難波田の土地は北条氏の家臣上田氏が支配しました。しかし、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたため難波田城は廃城となりました。
難波田城は江戸時代に作られた絵図などに描かれています。城は最初小さなものでしたが、戦国時代に難波田弾正善銀が活躍する頃に、大規模に改造されたと考えられます。江戸時代には、城跡に修験寺院の十玉院が建てられました。
(難波田弾正歌合戦図)
(浅野文庫難波田古城図)
難波田城
難波田城は富士見市東部の荒川と新河岸川の間の自然堤防上にあった、武蔵七党村山党の一流難波田氏の居城である。鎌倉時代に村山党金子氏の金子家範の子、高範が当地を与えられ地名を苗字として館を構えたのが始まりと言われている。『新編武蔵風土記稿』には築城から廃城に至るまでだけでなく具体的に城郭の構造にも触れられており、「小田原編年録」の文化9年(1812年)の古図にも描かれている。河越夜戦で難波田氏の主家扇谷上杉氏の敗戦により難波田氏が没落すると上田朝直一族の上田周防守左近の知行地となり、支城として縄張りを広げ城郭を改築していったとされる。戦国時代に小田原の北条氏が作成した『小田原衆所領役帳』にも小机衆の上田左近が難波田の領主であったことが記されている。しかし、永禄年間初頭には北条氏の家臣清水政勝が河越城衆として難波田城を攻撃したことを晩年に作成した覚書(「清水正花武功覚書」)に記しており、難波田周辺に所領を持っていた太田資正が北条氏と争った時期に難波田城を支配していたと考えられている。その後、大田資正が岩付城を追われたことで難波田城も北条方に戻っている。小田原征伐の武州松山城落城と共に廃城となった。
現在城跡は市の発掘調査後に「難波田城公園」として整備されている。市教育委員会の発掘調査によると古図とほぼ同様に三重の堀と本郭を中心に郭が同心円状に配置され、建物跡や倉庫跡が発掘された。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曲 輪
曲輪は、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。郭とも書く。 主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられる。主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられていた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曲 輪 1
曲輪1は、城主が住んでいた城の中心部です。古絵図には「本城」と記され、東西45m、南北30mの規模があります。
難波田城最古の14世紀頃の大型建造物跡や、
多くの遺物が地下1.5mの
部分から発掘されました。
その後、城が拡張されるに
したがって、盛り土されて
いきました。
曲輪を囲っていた土塁は、
一部が残っているだけです。
曲 輪 2
曲輪1(本丸)の出入り口前方にある曲輪です。これは戦いに際して、この曲輪に城兵を入れる「馬出曲輪」と考えられます。
馬出にはいろいろな形がありますが、難波田城ではこのように独立した曲輪になっています。周囲に土塁を巡らし、外から中が見えないようしていました。ここから曲輪3には木橋を渡っていきました。
馬出の種類
草の丸馬出 | 辻の馬出 | 真の馬出 | 草の角馬出 |
十王院墓地
十玉院は、中世に栄えた修験道寺院ですが、戦国時代に一時衰えました。江戸時代前期に、難波田氏の縁者という理由から、幕府が難波田城跡に移転・再興することを許可しました。
ここの墓塔は、十玉院の代々の院主やその関係者のものです。明治5年(1872)の修験道廃止令に
よって、十玉院は
廃寺となりました
が、院主の上田氏
は、その後に埼玉
県議会議員などで
活躍しました。
富士見市指定有形文化財
旧大澤家住宅
市内東大久保に所在した民家です。江戸時代に大久保村の名主をつとめていた大澤家の母屋として、明治4年(1871)に建築されました。
「式台」とよばれる玄関や違い棚、付書院を備えたオクザシキなどに、名主宅として風格を残しています。
建築面積は約278㎡です。
富士見のなりわい 水田と畑
現在は富士見市に住む人々の多くがサラリーマン世帯ですが、昭和30年代以前はそのほとんどが農家でした。“野方”の村(鶴瀬・鶴間・水子・針ヶ谷)では、台地の上に畑、台地下の谷戸や沖積地に水田を開き、“里方”の村(東大久保・上南畑・下南畑・南畑新田)では家の周囲に水田を作りましたが、野方の台地にも畑を持っていました。
富士見のなりわい 湿田から乾田へ
富士見市域の水田のほとんどは荒川・新河岸・柳瀬川の沖積低地につくられています。それらの中には「ドブッタ」または「フカンボ」などとよばれる湿田が多く、水はけが悪いうえに河川の氾濫もあって、収穫量は多くありませんでした。
そのため、明治時代末期から昭和20年代にかけて、各地区で耕地改良がおこなわれました。その結果、湿田は裏作が可能な乾田となり、稲のほかに麦やジャガイモも収穫できるようになりました。
田舟を使った稲刈り(市内水子)
富士見のなりわい 畑の作物
ゴボウ掘り(市内水子)
台地に広がる畑では、時代とともにさまざまな作物が作られてきました。江戸時代には大麦・小麦・大豆・小豆・サツマイモ・木綿・胡麻などが栽培され、自給用の作物の他、消費地に売るための商品作物も多く作られました。昭和初期になると食糧品増産政策のもどで陸稲・ゴボウ・蔬菜類なども作られるようになりました。さらに、戦後は「七色畑」とよばれるほど多様な作物がつくられるようになりました。
富士見のなりわい クズハキ
クズハキ(三芳町)
現在のように科学肥料を使う前は、作物の肥料として使われていたのは、米糠や干鰯などの購入肥料(金肥)よりも、自給できる下肥や堆肥が中心でした。堆肥は「ヤマ」とよばれる雑木林の落ち葉でつくりました。落ち葉を集める「クズハキ」は雑木林の多い野方地域では大切な仕事でしたが重労働でした。
また、里山の村でも、堆肥などの肥料を作るためのヤマを野方の地域にも多くもっていました。
富士見の編物業
明治時代末から大正時代にかけて、織物業は富士見市域を含む川越・上福岡・志木一帯の地域産業の一つでした。主に木綿織・絹綿交織が生産されました。当時、鶴瀬村4戸、水谷村3~5戸、南畑1~2戸が織物業(「機屋」)を営んでいました。
機屋では住み込みや通いの織り子を雇っていたほか、近隣の農家の女性にも出機を頼んでいました。糸を渡して自宅の織機で織り上げてもらう出機は、農家にとっては「賃機」といい、農閑期の重要な副業でした。
「縜日本帳より関野村 家蔵」
富士見市指定有形文化財
旧鈴木家表門
市内針ヶ谷に所在した長屋門です。江戸時代に針ヶ谷の名主をつとめていた鈴木家の表門として建築されました。長屋門は、江戸時代には家の格式を示すものとして武士・名主・寺院などの建築が許されていました。
くわしい建築年式は不明ですが、明治時代の中期以降に建てられたと推定されます。
建築面積は約117㎡です。
富士見市立難波田城公園ご案内
利用案内
●公 園
開園時期 4月~9月 9時から6時まで
10月~3月 9時から5時まで
休園日 なし
ただし、資料館の休館日には古民家ゾーンの建物内の見学と利用はできません。
●資料館
開館日 9時から5時まで
休館日 休日の翌日
月曜日(その日が休日の場合を除く)
年末年始
ご利用にあたって、次のことにご注意ください
・火を使用しないでください
・タバコは決められた場所以外では吸わないでください
・水堀で魚釣りはできません
・ゴミはお持ち帰りください
・園内の植物の保護のため、つぎのことはできません
決められた場所以外に入ること
枝を折ること
土を掘り返すこと
・園内で営利を目的とした行為はできません
手づくり郷土賞
国土交通大臣 扇千景
埼玉県 富士見市
平成13年11月
寄贈 ㈳関東建設弘済会
水 塚
水塚は、たびたび洪水に見舞われた荒川や利根川などの川沿いの低地部に多く見られます。宅地全体を盛り土し、さらにその一部を塚のように高く盛って土蔵を建てました。これを水塚といいます。洪水などの非常時に備えたものです。
富士見市域は、野方と里方の地域にわけられますが、水塚は里山地域に特徴的なものです。この水塚の周囲には、スギやケヤキ、モチノキなどの樹木を植え、土蔵を風から守っていました。
富士見市立難波田城資料館
食い違い小口
城は敵の攻撃に対して守りやすく、敵が攻めにくくするために、
曲輪の配置、堀の大きさ・深さ、土塁の形などにいろいろ工夫をしました。
城の出入り口を「小口」といいますが、この「食い違い小口」もその工夫一つです。小口の左右、または一方土塁を屈曲させてS字形の通路にして、敵が攻めにくいようにしたものです。
小口の形はいくつかの種類があります。
小口の種類
大陰の小口 | 外桝形 | 食い違い小口 | 一文字土居 | 内桝形 |
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