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JWAのウオーキング教室
2017年11月度
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千代田区役所
庁舎は九段第3合同庁舎との合築であり、1階から10階を千代田区役所庁舎として、11階から23階は、中央省庁の出先機関である、総務省関東総合通信局、財務省会計センター、厚生労働省東京労働局、関東信越厚生局麻薬取締部などの行政機関が入居している。庁舎整備においてはPFI手法が導入された。
旧庁舎は千代田区九段南一丁目6番11号に置かれ、現庁舎のほぼ斜め向かいのお濠端の場所にあった。1955年(昭和30年)に完成し、千代田図書館も併設するほか、隣接する千代田区公会堂とは連絡橋で庁舎と接続していた。老朽化のため、2007年(平成19年)5月の現庁舎への移転後、しばらくは解体されなかったが2012年暮れから翌2013年にかけて解体された。跡地には千代田区立高齢者総合サポートセンター及び九段坂病院の共同施設が建設され、2015年11月24日に開業した。
ソース: 千代田区役所 – https://ja.wikipedia.org
清 水 門
清水門は、創建年代は明らかではないが、1607年(慶長12年)に、北の丸普請が行われていたことから、この時期に建てられたものと考えられている。現在の清水門が建っている辺りは、中世には清水寺があったといわれ、江戸時代には江戸城の一画に取り込まれ、北の丸への出入口として利用された。北の丸は、武家地として利用され、江戸時代中期以降は、御三卿のうち田安家(田安徳川家)・清水家(清水徳川家)の屋敷と蔵地に利用された。門を潜り進むと北の丸公園がある。往時、北の丸公園の東側は一帯は清水家が、西側一帯は田安家が、それぞれ所有していた。1624年(寛永元年)に、安芸広島藩主浅野長晟によって改築され、1657年(明暦3年)の大火で焼失したため、翌、1658年(万治元年)に再修築された。明治時代から戦前までは、近衛歩兵連隊の駐屯地となった。「江戸城跡」は国の特別史跡に指定されている。また、江戸城の門のうち清水門のほか、外桜田門と田安門が重要文化財(建造物)に指定されている。
ソース: 清水門 – https://ja.wikipedia.org
北の丸公園は皆さんの公園です。
きれいな環境で楽しく利用できるよう
次のことを守って下さい。
北の丸公園案内図
北 の 丸 公 園
名前の通り江戸城の北の丸であった場所で、現在は環境省の管理する国民公園の一つである。多くの文化施設を公園内に持ち、旧江戸城の遺構(田安門、清水門はいずれも重要文化財に指定)も多い。ビルが立ち並ぶ都心部にあって、緑が豊かな場所であり、皇居外苑や日比谷公園などと並んで都会のオアシス的な公園である。園内には道路があるため、自動車での乗り入れもでき、有料駐車場も備えている。散策や森林浴、ジョギングやウォーキングを楽しむ人々も多く見られる。
公園西側の堀にある石垣のわずかな隙間に、国の天然記念物に指定されている「ヒカリゴケ」が自生している。江戸城築城の際に全国から運び込まれた石垣用の岩に付着したまま持ち込まれたと考えられているが、本来高地の洞窟などでしか見ることができない貴重な苔であり、都心部で発見されることは極めて稀である。
ソース: 北の丸公園 – https://ja.wikipedia.org
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憲政記念館
1960年に建てられた尾崎行雄(衆議院名誉議員)を記念する「尾崎記念会館」を母体に1970年の日本における議会政治80周年を記念して設立され、2年後の1972年に開館した。
資料展示をするほか、特別展・講演会などが催されている。
元憲政記念館主幹の伊藤光一と元東大教授の伊藤隆によれば、憲政記念館は近代日本政治に関する多数の貴重資料(樺山資紀・鈴木隆夫・重光葵関係等々)を所蔵しているが、未整理・非公開のまま放置されているものが多い。また閲覧の制度がきちんと整備・運用されていないため、研究者の資料利用に大きな支障をきたしている。特別展等の準備に追われて整理する時間がなく、その間に職員も入れ替わって行くため、貴重資料を収集しておきながら杜撰な管理体制下にあると問題視されている。
江戸時代には、大老職を務めた井伊直弼(彦根藩)の上屋敷がここにあった。また戦前は陸軍省、参謀本部、陸地測量部(国土地理院の前身)があった場所である。
2003年には、『尾崎記念会館』としてDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれている。
ソース: 憲政記念館 – https://ja.wikipedia.org
憲政記念館 時計塔
尾崎記念会館(現・憲政記念館)建設時に、その施設の一環として、塔前面の噴水池・花壇とともに設計され、1960年7月に完成した。三面塔星型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したものである。
塔の高さは「百尺竿頭一歩を進む」と言うことわざの努力の上にさらに努力して向上するの意味から、百尺(30.3m)よりも高くした31.5mに設定された。時計は時間を厳守した尾崎行雄を称えてスイスから贈られた物であったが、現在は国産の物に改修されている。
「椰子の実」のなどの作品で知られる作曲家・大中寅二によるチャイムは一日4回、10時・13時・17時・22時に鳴動する。これは、衆議院、参議院の会議開会時刻と退庁、就寝時を標準にしたもので、その音響は静寂時には5キロメートル周囲に響き渡った。
ソース: 憲政記念館 – https://ja.wikipedia.org
国会議事堂
現在の国会議事堂は1936年(昭和11年)11月7日に竣工したが、その建設計画は明治期にまで遡る。
1881年(明治14年)10月12日、明治天皇から国会開設の詔が発せられ、1890年(明治23年)を期して「國會」(議会)を開く事が表明された。そして1885年、(明治18年)に内閣制度が発足すると議事堂建設の取り組みが始まった(初代:第1次伊藤内閣)。1886年(明治19年)2月、内閣に臨時建築局が設立され、ドイツ帝国から建築家を招聘して官庁集中計画と議事堂の設計が成された。1887年(明治20年)4月の閣議で、議事堂建築予定地が東京市麹町区永田町一丁目(現・東京都千代田区永田町一丁目の現在地)に決定されたが、官庁集中計画には多額の経費が必要であり、帝国議会(下院:衆議院、上院:貴族院)の開設も切迫していたことから、この計画による議事堂建築は中止された。
こうして、麹町区内幸町二丁目(現・千代田区霞が関一丁目、現在の経済産業省敷地)に仮議事堂が建設された。ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラーおよび臨時建築局技師吉井茂則の設計による第一次仮議事堂は、第1回帝国議会召集前日の1890年(明治23年)11月24日に竣工し、11月29日に貴族院議場で明治天皇の臨席の下で開院式が行われ、第1回帝国議会が開会された。会期中の翌1891年(明治24年)1月20日未明に漏電により出火、仮議事堂は全焼した。このため貴族院議場を華族会館(旧鹿鳴館)、後に帝国ホテルへ移し、衆議院議場を東京女学館(旧工部大学校)へ移して会期を終了した。その後、吉井とドイツ人建築家オスカール・チーツェの設計による第二次仮議事堂が4月28日に着工。昼夜兼行の作業で第一次仮議事堂の跡地に再建され、同年10月30日に竣工した(第2回帝国議会は11月21日召集)。
1894年(明治27年)8月には日清戦争が勃発、大本営が広島県に移されると、広島臨時仮議事堂が約半月の突貫工事で広島に建設され、同年10月14日竣工、翌10月15日に召集された第7回帝国議会で使用された。東京都(東京府)以外で帝国議会(国会)が開会された唯一の事例である。
日露戦争後の1906年(明治39年)には仮議事堂の改修および本格的な議事堂の建設が決まったが、大正政変により実施は延期された。さらに数年を経た1918年(大正7年)9月になって新議事堂の意匠設計が一般公募されることになった。翌1919年(大正8年)2月、応募作品118通中、一次選考・二次選考を通過した4図案の中から、宮内省(現在の宮内庁)技手の渡辺福三案(実際には宮内省内匠寮有志による案)が1等に選ばれた。当選案を参考に大蔵省(現在の財務省)臨時議院建築局が実際の設計を行い、デザインは大幅に変更された。1920年(大正9年)1月30日に原敬内閣総理大臣(原内閣)などが参列して、現在地である永田町の高台において地鎮祭を挙行、新議事堂の建設が始まった。
1923年(大正12年)には関東大震災に見舞われたが、建設中の新議事堂および第二次仮議事堂は無事だった。しかし1925年(大正14年)9月18日、仮議事堂は改修作業中の作業員の火の不始末から火災を起こして焼失した。このため政府は第三次仮議事堂設置を決め、新議事堂の建設はさらに遅延することになった。仮議事堂は同年12月開会の通常帝国議会に間に合うよう9月29日に建設着手し、昼夜兼行の突貫工事でわずか3か月で建設され、同年12月22日に完成した。
新議事堂の完成が近づいた1936年(昭和11年)2月26日には二・二六事件が発生、陸軍武装青年将校の一群が永田町一帯を占拠した。29日早朝に武力による鎮圧が決定されると、東京湾御台場沖には海軍の軍艦40隻が集結、永田町に艦砲射撃の照準を合わせて反乱軍を威嚇した。
こうした苦難を経て、新議事堂が広田弘毅内閣総理大臣(広田内閣)、冨田幸次郎衆議院議長、近衛文麿貴族院議長など約2800人の来賓を迎えて竣工式を迎えたのは、着工から実に17年を経た1936年(昭和11年)11月7日のことだった。
第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)に日本国憲法が制定され、議院内閣制の確立により帝国議会にかわる国会が国権の最高機関と位置付けられると、国会議事堂はその権威を象徴する施設となった。昭和30年代(1955-1964年)に入り、周辺の国有地が衆議院および参議院(帝国議会の貴族院に代わる上院)へ移管されるとともに、パレスハイツ(現・最高裁判所庁舎)・ジェファーソンハイツ(現・衆議院議長公邸および参議院議長公邸)・リンカーンセンター(現・国土交通省庁舎)等の連合国軍占領期以後の在日米軍接収地も返還が決まったため、首都高速道路の整備と合わせて、国会議事堂の敷地拡張および周辺の区画整理が行われた。現在の議事堂周辺には衆参両院の議員会館や総理大臣官邸(首相官邸)、政党関係の施設が立ち並び、日本の政治の中枢となっている。
ソース: 国会議事堂 – https://ja.wikipedia.org
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桜 田 門
当初は小田原街道の始点として小田原口と呼ばれていた。寛永13年(1636年)にそれまでの柵戸仕立の門を現在のような桝形門に改築、桜田門とよぶようになる。外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)の二重構造になっており、桝形を構成している。大正12年(1923年)の関東大震災で一部が破損、鋼鉄土蔵造りに改修される。
安政7年(1860年)にこの門の近くで水戸藩浪士らによる大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きた。井伊邸は現在憲政記念館の建っている辺りにあり、桜田門から西に500メートルほどの所にあった。
昭和7年(1932年)には昭和天皇の暗殺未遂事件(桜田門事件)が起きた。
桜田門の正面(豊後杵築藩松平家屋敷跡)には現在、警視庁の庁舎がある。この事から警視庁は隠語で「桜田門」と呼ばれることもある。国道1号を挟んで法務省の赤レンガ棟が建っている。
重要文化財(建造物)
旧江戸城外桜田門 2棟 – 1961年(昭和36年)6月7日指定。時代:江戸中期、種別:城郭、所有者:国(文部科学省)。江戸城遺構のうち、宮内庁所管以外のもの(田安門、清水門、外桜田門)が重要文化財に指定されている。
外桜田門(そとさくらだもん)1663年(寛文3年)頃建築 (寛政重修諸家譜による)、高麗門、本瓦葺
髙麗門と櫓門からなる桝形を形づくっている。櫓門(やぐらもん)1663年(寛文3年)頃建築、脇戸付櫓門(寛政重修諸家譜による)、入母屋造、本瓦葺。
ソース: 桜田門 – https://ja.wikipedia.org
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皇居東御苑と天皇皇后両陛下
① ヒレナガニシキゴイ | ② 二の丸池 |
天皇陛下のご発案により、インドネシアのヒレナガゴイと日本のニシキゴイを交配して生まれたものです。平成3年(1991)と平成24年(2012)に、両陛下が御放流になりました。 | 都市化が進むにつれて池や沼が埋められ、かつては普通に見られた水生植物を見る機会が少なくなりました。ここには、ヒツジグサや御所の池から移植したコウホネなど4種類の水生植物が植えられています。 |
③ 新雑木林 | ④ はるかのひまわり |
平成14年(2002)に雑木林を拡張しました。小さな流れを作り、野鳥や昆虫の好む木を植え、御所近くから季節毎に楽しめる様々な野鳥を移植しました。 | 大震災で亡くなったはるかという名前の神戸の小学生の家の跡 に、人々を勇気づけるように咲いたことからそうよばれるようになったひまわりを全国に広げる活動の中で、両陛下にも種が献上され、御所で毎年大切にお育てになっています。そこで採れた種から育てているものです。 |
⑤ 竹林 | ⑥ ヨーロッパアカマツ |
「お印」の「若竹」にちなみ、昭和天皇の御所にはいろいろな竹が植えられていました。珍しい竹を多くの人が見られるようにとの天皇陛下のお考えで、平成8年(1996)にそこから13種類の竹を移植しました。 | 平成20年(2008)に国賓として来日されたスペイン国国王王妃両陛下から天皇皇后両陛下に贈られたものです。両陛下がお手植えになりました。 |
⑦ バラ園 | ⑧ フローレンス・ナイチンゲール |
日本や中国の野生のバラが植えられています。多くは御所近くのお庭から移植したものです。 | フローレンス・ナイチンゲール国際基金発足75周年を記念して作られたバラが献上され、両陛下が平成21年(2009)にお手植えになりました。 |
⑨ 果術古品種園 | |
江戸時代にはよく作られていたものの、品種改良が進んだために、今ではほとんどが顧みられなくなった果樹を集めました。平成20年(2008)から植えられ、両陛下もお手植えになりました。 |
松の大廊下跡
江戸城本丸には広大な御殿があり、この場所は「松の大廊下」がありました。襖戸に松と千鳥が描かれた長い畳敷きの廊下で、赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件(元禄14年(1701年)があった場所です。
事件を下敷きにして、「仮名手本忠臣蔵」をはじめ多くの舞台芸能、文学作品、映画、テレビドラマが生まれています。
皇居東御苑 案内図
平 川 門
大手門が正門であるのに対して、この門は、御殿に勤めていた奥女中などの通用門として使用されていました。大手門と同様、厳重な防御の構造になっています。また、城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたといわれています。小さな脇門は、平川豪の中に伸びた、「帯曲輪」と呼ばれる細長い渡り堤につながっています。
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