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第13回東京下町八社福参り
東京ウオーキング協会
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ソノサトキザクラ(園里黄桜)
長野県須坂市豊丘で、平成13年(2001)に、普賢象の古木の先端に黄緑色の八重の花を咲かせる枝が見つかりました。
発見された場所の旧地名の園里村にちなみ「園里黄桜」と命名され、平成18年(2006年)には新品種として認定されました。
黄花八重咲きの品種
ギョイコウ(御衣黄)、ウコン(鬱金)、スマウラフゲンゾウ(須磨浦普賢象)、ソノサトキザクラ(園里黄桜)など
出典:東京都東部公園緑地事務所・上野桜守の会
下 谷 神 社
概要
古くは下谷稲荷社、下谷稲荷明神社と呼ばれた都内最古の稲荷神社。東京メトロ銀座線の稲荷町駅に名を残す旧町名の稲荷町は、この神社の旧称が由来の町名である。例大祭で近隣町内を渡御する本社神輿は台輪幅4尺1寸の千貫神輿といわれ、大きな威容を誇る。
社殿の天井画は横山大観の作。また、1798年に初代・三笑亭可楽によって当社境内で初めて寄席が開かれた。このため、本神社には「寄席発祥の地」の石碑がある。
夏になるとドライミストで神社に集まる人々が涼しんでいる。
「水」と「芸能」のパワースポットと云われる。
宮司の阿部明徳は、東日本大震災で被災した神社等の仮社殿、鳥居、神輿、縁日などの復旧支援活動を、他の神社関係者と共に行っている。
歴史
当初は上野公園に鎮座していた。730年(天平2年)、峡田の稲置らが建立したとも、行基が伏見稲荷大社を勧請したとも伝えられる。939年(天慶2年)、平将門による天慶の乱追討祈願のため、藤原秀郷が社殿を新造したという。寛永年間、境内が寛永寺山内となるにあたり、1627年(寛永4年)別当正法院と共に下谷屏風坂下に移転したが、126坪余と手狭だったため、1680年(延宝8年)下谷広徳寺前にあった谷中天眼寺先住少林庵抱地525坪余と土地を交換した。1703年(元禄16年)旧地も正法院抱地になった。
1868年(明治元年)神仏分離令により正法院を分離した。翌年周囲の町名が当社に因み下谷稲荷町となる。1872年(明治5年)下谷神社と改称、翌年下谷地域の郷社と定められた。関東大震災で社殿を焼失、1928年(昭和3年)現在地に移転。1934年(昭和9年)現在の社殿が完成した。東京大空襲では被害を受けなかった。
氏子地域
台東区東上野
台東区上野五・六丁目全域、七丁目2~12
台東区台東一丁目7~12・27~31、二丁目7~10・18~32、三・四丁目全域
千代田区神田須田町二丁目
台東区元浅草二丁目7・10・11
ソース: 下 谷 神 社 – https://ja.wikipedia.org
小野照崎神社
由緒
小野篁を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る。852年(仁寿2年)この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎したのが起源と伝わる。寛永年間(1624年-1643年)、寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現社地に遷座した。江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わる像を迎えて相殿に祀り、「江戸二十五天神」の一つに数えられた。樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出ている。
境内末社
富士浅間神社(下谷坂本富士)
御嶽神社
三峰神社
琴平神社
庚申塚 – 日本三大庚申の一つ。
稲荷神社
織姫神社文化財
下谷坂本富士 – 小野照崎神社の敷地内にある富士塚。1828年(文政11年)建造。1979年(昭和54年)には「下谷坂本の富士塚」(したやさかもとのふじづか)として、重要有形民俗文化財に指定されている。毎年富士山の開山に合わせて6月30日と7月1日に一般の登拝ができる。
ソース: 小野照崎神社 – https://ja.wikipedia.org
鷲神社 (台東区)
鷲神社(おおとりじんじゃ、わしじんじゃ)は、神社の名称。
いわゆる大鳥大社を総本社とする大鳥信仰の神社である。「おおとりじんじゃ」と読む場合は同じ読みの大鳥神社や大鷲神社などと関係すると考えられ、「わしじんじゃ」と読む場合は鷲宮神社、日鷲神社、天日鷲神社と関係が深いと考えられる。
祭神は大鳥大社と同じ日本武尊のほか、天日鷲神、天鳥船神、鷲宮神社と同じ天穂日命と武夷鳥命、また大己貴命などが見られる。
宗教法人としては全国に鷲神社が76社、鷲神社を名称に含む神社が3社、鷲大神社と鷲大神がそれぞれ1社ずつ存在する。
一覧
大鳥神社 (曖昧さ回避)、大鷲神社 (曖昧さ回避)、鷲宮神社 (曖昧さ回避)、日鷲神社 (曖昧さ回避)も参照
ソース: 鷲神社 – https://ja.wikipedia.org
今戸神社
今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。また永保元年(1081年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り、戦勝祈願をしたといわれている。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災や太平洋戦争の際、米軍の爆撃機B-29が昭和20年(1945年)3月10日に焼夷弾を投下したり(東京大空襲)など数々の戦乱や火災に見舞われたが、その都度再建され、現在の社殿は1971年(昭和46年)に再建されたものである。1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八幡と呼ばれていた当神社が現在の今戸神社と呼ばれるようになった。また現在では浅草七福神のひとつ福禄寿も祀っている。
招き猫発祥の地
戦前またはそれ以前に遡っての古文献には、招き猫の発祥と当社に関する文献上の記録や言い伝えは確認されておらず、招き猫と当社との結びつきを示すものはない。近年になって招き猫発祥の地のひとつとして縁結びと結びつけ自ら名乗りをあげている。
江戸時代の地誌『武江年表』または日記『藤岡屋日記』の嘉永5年(1852年)の記述によれば、浅草花川戸に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして浅草寺境内三社権現(現浅草神社(三社様)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったという(今戸焼または丸〆猫参照)。
これが今戸神社が自ら招き猫の発祥と名乗る論拠であるが、同史料は浅草寺や浅草神社に由来するものとしての記録であり、今戸神社(旧今戸八幡)との結びつきを示すものではない。平成の招き猫ブームのと縁結びパワースポットのブームに乗り、今戸神社は自ら招き猫発祥の地として看板を掲げるようになり、多くの招き猫が奉られるようになったが、本殿や境内に安置されている招き猫の形状は江戸明治期の今戸焼の招き猫とは何ら関係のないものであり、考証的には伝統的なものとは全く関わりのない、平成の産物として見る必要がある。なお、本殿に祀られている大型の招き猫や社務所から授与されている土焼き製、磁器製の招き猫ともども形状は、戦後の常滑産招き猫の造形から影響を受けたものと考えられる。
沖田総司の終焉の地
当神社は幕末の著名人である新選組の沖田総司の終焉の地である、と主張しており、神社は境内にその旨を記した碑を建立している。これは、当時結核を患っていた沖田を診ていた松本良順が、当時今戸神社を仮の住まいとしていた、とすることからきている。また、新撰組隊士の永倉新八が沖田は松本宅で死亡、と書き残している。ただし当時永倉は江戸に居らず、推測または伝聞で記したものである。
現在の有力な史料においては、沖田は今戸八幡神社に間借りしていた松本の手引きにより、千駄ヶ谷の植木屋の柴田平五郎宅の納屋に匿われており、同地で死亡した、とするのが定説である。
縁結びの神
戦前合祀された白山神社の祭神に伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦の神を祀っていることから、近年になって縁結びにゆかりがあるとアピールされている。また、絵馬は他の神社では見られない「真円形」のデザインの絵馬である。これは縁と円の語呂を掛け合わせたモダンなデザインのものとなっている。
ソース: 今戸神社 – https://ja.wikipedia.org
隅 田 公 園
概要
この公園は、1923年に発生した関東大震災により、壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、後藤新平の主導により浜町公園(中央区)、錦糸公園(墨田区)と並んで計画・整備された。
隅田公園内には約700本の桜があり、日本さくら名所100選に選定されていて、毎年さくらまつりが開催される。 約1キロに渡る隅田川両岸の桜並木は、八代将軍徳川吉宗のはからいにより植えられた。江戸時代より花見シーズンには多くの出店が列び賑わう。
台東区では、2003年度から、区民や市民団体、企業などの協力を得て「隅田公園花の名所づくり事業」を進めている。公園にヒガンバナの植栽に続いて、平成18年度からは区の内外から「アジサイ株主」を募り、アジサイロードの整備を行った。2年間で3回の株主募集により千人以上から寄付を受けた。また山谷堀広場(地図)には仮設劇場が設置され、平成中村座の公演が行われている。
ソース: 隅田公園 – https://ja.wikipedia.org
平成中村座
発祥の地の碑
「江戸時代の芝居小屋を現代に復活させ、多くの方々に歌舞伎を楽しんでもらいたい」十八世中村勘三郎丈(当時 勘九郎)の抱いてきた夢が「平成中村座」として二千年十一月、ここ山谷堀に実現しました。
第一回公演は「隅田川続俤 法界坊」でした。
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第六天榊神社
概要
景行天皇の時代、日本武尊が東夷征伐の折に創祀したという。古くから「第六天神宮」と呼ばれてきたが、明治6年(1873年)に社号を「榊神社」へ改称した。昭和3年(1928年)、東京高等工業学校(前進は東京職工学校、現:東京工業大学)の跡地に遷座(移転)し現在に至る(詳細は後述)。
当社は「下町八福神の神社めぐりコース(巡礼札所)」のうちの一社に入っている。
祭神
主祭神:榊皇大神(第六天榊大神/天神第六代坐榊皇大御神)
面足尊
惶根尊境内
境内の南側(拝殿正面)および西側に鳥居(計2つ)があり、南側の鳥居横には社号標も設置されている。また南側の鳥居から入って、拝殿の手前右側は手水舎となっている。さらに境内には以下の境内社が鎮座している他、神楽殿や宝物庫、井戸(現在は飲用不可)などが存在する。
境内社
七福稲荷神社
事比羅神社・豊受神社[要曖昧さ回避]
繁盛稲荷社
ソース: 第六天榊神社 – https://ja.wikipedia.org
浜 町 公 園
建設当時の浜町公園。大川端と金座通りに入り口、中央にホールをもつ近代的な公園として造られた。
後藤新平の主導により、1923年に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、隅田公園(台東区、墨田区)・錦糸公園(墨田区)と並んで計画された。当地は、江戸時代は熊本藩主・細川氏の下屋敷があり、明治期以降も細川家の邸宅があったが、公園として整備され1929年に開園した。
公園内には、広場のほか、1861年に熊本藩主・細川斉護によって建てられた、加藤清正を祀る清正公寺がある。清正公寺は、当地がまだ細川家が所有していた頃から一般にも公開されていた。
現在では、園内にデイキャンプ場や運動広場の他、中央区立総合スポーツセンターがある。近隣地域の貴重な緑地スペースとして、現在に至るまで周辺住民のみならず浜町付近を利用する人に多く利用されている。
映画「容疑者Xの献身」の舞台でもある。
ソース: 浜町公園 – https://ja.wikipedia.org
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中央区平和都市宣言
いまいちどたちどまり
平和の尊さをみつめよう
ささやかな幸せも
こよなき繁栄も
平和の光が消えたなら
すべてが失われる
私たちの手にあるこの輝きを
明日の世代に伝えよう
1988年3月15日
この日、私たちは
永遠の平和を願い
中央区が平和都市で
あることを宣言する
花の都中央区宣言
緑をはぐくみ 花をいつくしみ
生きとし生ける生命を尊ぶ
美しいまち 清潔なまち
思いやりと 人情あふれるまち
出典:中央区
そんなほっとするまちにしたい
だから今
「花の都市中央区宣言」
それは ひとつぶの種
小さなこのひとつぶが
やがてまちいっぱいに
大輪の花を咲かせる
そんな願いをこめて
平成元年4月1日
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明 治 座
明治座(英語:Meijiza)は、東京都中央区日本橋浜町二丁目にある劇場、およびこれを運営する企業の株式会社明治座(かぶしきかいしゃめいじざ、英語:Meijiza Co., Ltd.)である。
概要
明治時代からの長い歴史を持つ「日本橋明治座」は、「銀座歌舞伎座」「新橋演舞場」「お堀端帝劇」などとともに、東京を代表する劇場として親しまれてきた。
本劇場の前身は江戸時代末期に両国にあった富田三兄弟による菰張芝居 (こもを巡らしただけの芝居小屋) で、1873年(明治6年)の両国橋畔の興行禁止令により、久松町 に移転し喜昇座(きしょうざ)として創建された。初期には焼失と再建を繰り返しながら成長し、その度に名称も久松座(ひさまつざ)、千歳座(ちとせざ)とめまぐるしく変わっていった。1893年(明治26年)に初代市川左團次が千歳座を買収して座元となり、これを明治座と改称するに及んでやっとその名が落ち着き、今日に至っている。1931年(昭和6年)、明治座は歌舞伎座、新富座、松竹と合併し、松竹興行株式会社になった。
明治座は戦前から戦後昭和の一時期までは、歌舞伎や新派の殿堂として知られた。また、大正時代の一時期は野球部を保有していた。その後は時代劇公演や、時代劇俳優や演歌歌手など年配に好まれる芸能人が座長となった歌謡ショー形態の公演(座長公演)が中心となった。
2000年代に入るとテレビ局との提携による現代劇や観劇者の世代を引き下げたミュージカル形態の公演もおこなわれるようになった。舞台設備には、宙乗り装置も常備されている。各階のロビーには所蔵絵画が多数展示されており、美術館のような雰囲気を醸し出している。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼失した明治座は、その残骸をむき出しのまま放置されていた。地元有志の間で明治座復興の気運が盛り上がり、1947年(昭和22年)3月に復興期成会が組織された。明治座設立発起人準備委員会を開いたのは、復興期成会結成から3年近くも経った1949年(昭和24年)11月だった。発起人総代に三輪善兵衛(ミツワ石鹸社長)、副総代に新田新作(國粹会生井一家人形町貸元、新田建設社長)、準備委員に松坂屋の伊藤鈴三郎、松竹の大谷竹次郎などが名を連ね、料亭「玄冶店 濱田家」を営む三田政吉も参加した。建設は新田建設が請け負い、1950年(昭和25年)11月30日に開場に漕ぎ着けた。総工費一億三千万円。初日の演目は、壽式三番叟であった。
1957年(昭和32年)に三田政吉が明治座代表取締役専務となり、同年に漏電のため焼失した明治座の再建に尽力する。1993年に三田政吉は明治座代表取締役会長となる。2002年から、政吉の長男である三田芳裕が社長を務めている。
また、福岡市博多区の博多座で年1回の割合で舞台を制作しているほか、明治座グループとして俳優養成機関・明治座アカデミーの運営や、都内を中心に外食産業も手掛けている。
1993年には、再開発で建て替えた賃貸オフィスビルの浜町センタービル低層階を占める形となっている。エスカレーターやエレベータを備え、客席には車椅子スペースの設置など、バリアフリーを導入している。
公演方式は他の劇場とは異なり、30分程度の幕間(休憩時間)を2回挟む。劇場内に大人数に対応した食堂や喫茶コーナーがあり、休憩時間を利用して客を誘導するシステムとなっている(食堂は一部事前予約制)。飲食店のほかにもロビーには売店が多数あり、公演にちなんだ土産品や衣料品雑貨などを販売している。
建物3階(劇場1階席)受付にてオペラグラスの貸出(有料)を行っており、貸出料は一律500円。保証料は一般的なオペラグラスは2000円、高機能なカブキグラスでは5000円。
弁当製造部門は明治座本体が運営しており、江東区東砂に工場があり劇場で供されるほか、都内へケータリングも行っている。西京漬は単体で主力商品としている。
沿革
1873年(明治6年)に開場して以来、130年以上の歴史と伝統を誇る。戦前は松竹が経営していたが、戦後は新田建設の新田新作が中心となり、株式会社明治座を設立して運営。以降、基本的に自主興行を続けている。
1850年頃 – 西両国広小路において三人兄弟の芝居「喜昇座」として始まった。当時は寺社の境内の小屋掛けで興行する宮地芝居だった。
1872年(明治5年) – 官許の劇場が江戸三座から東京十座に改定される
1873年(明治6年) – 日本橋久松町河岸に喜昇座が開場し、東京十座のひとつとなる。
1879年(明治12年) – 堀田正倫の資金援助により大改築を行い、久松座と改称。
1880年(明治13年) – 火災で焼失。
1885年(明治18年) – 千歳座と改称して新築開業。
1890年(明治23年) – 火災で焼失。再建。
1893年(明治26年) – 初代市川左團次が千歳座を買収して座元となり、明治座と改称。
1911年(大正元年) – 座主が、新派俳優の伊井容峰となる。
1917年(大正6年) – 松竹合名会社に経営権が移る。
1923年(大正12年) – 関東大震災で焼失。
1928年(昭和3年) – 浜町に移転し、再建。
1945年(昭和20年) – 東京大空襲で焼失。
1950年(昭和25年) – 株式会社明治座設立。再建。
1957年(昭和32年) – 漏電を原因とする火災が発生、再び焼失。
1958年(昭和33年) – 再建。
1960年(昭和35年) – 株式会社芳町会館設立。
1964年(昭和39年) – 株式会社明治座美術センター設立。
1966年(昭和41年) – 株式会社明治座美術センターを明治製作所に社名変更。
1970年(昭和45年) – 明治座舞台株式会社を設立。
1972年(昭和47年) – 株式会社明食設立。
1976年(昭和51年) – 森下ビル購入。
1986年(昭和61年) – 株式会社明食を明治座事業株式会社に社名変更。
1990年(平成2年) – 老朽化で興行休止。株式会社明治製作所を株式会社エス・ピー・ディー明治に社名変更。森下営業所開業。
1993年(平成5年) – 浜町センタービル内に創建から7代目となる新明治座が開場。明治座百年記念公演開催。浜町センタービル竣工。
1994年(平成6年) – 明治座フードコミュニティー設立。
1999年(平成11年) – 株式会社エムエス・ファーマシー設立。
2003年(平成15年) – 町屋営業所開業。株式会社明治座アートクリエイト設立。
2006年(平成18年) – 明治座ダイニングプロモーション設立。
2009年(平成21年) – 料飲事業本部、江東区森下より江東区東砂に移転。東砂営業所開業。
2011年(平成23年) – 明治座森下スタジオ開業
2019年(平成31年) – 明治座創立百四十五年を記念し、アート集団チームラボ制作のデジタルテクノロジーを使用した新しい緞帳「四季喜昇座 – 時を紡ぐ緞帳」を公開した。
ソース: 明 治 座 – https://ja.wikipedia.org
小 網 神 社
地理
日本橋地域の南部に位置し、日本橋川の北岸に当たる。北で日本橋小舟町、東で日本橋人形町・日本橋蛎殻町、南東で日本橋箱崎町、日本橋川を跨いだ南で新川、同じく日本橋川を跨いだ西で日本橋茅場町、北西で日本橋・日本橋小舟町と接する。日本橋久松町に所在する久松警察署および日本橋兜町に所在する日本橋消防署の管轄区域内に当たる。
河川
日本橋川 – 鎧橋・茅場橋が架かる。歴史
江戸時代の初期、慶長年間に江戸城が築城された頃には、小網町の付近は日本橋川の河口洲の小さな中島であったとされる。八丁堀・霊岸島など、江戸の前島の埋立てが進むにつれて、日本橋川沿いの河岸の街へと姿を変えた。日本橋川に面した土地柄、水上交通の面で重要な場所として発展した町である。江戸に入ってくる米を扱う商店・問屋があったほか、行徳で産生する塩の扱いが多かった。
ソース: 日本橋小網町 – https://ja.wikipedia.org
水 天 宮
祭神
天之御中主神、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)を祀るが、これとは異なる祭神の水天宮もある。
神徳・御利益・信仰
水と子供を守護し、水難除け、漁業、海運、農業、水商売、また安産、子授け、子育てについて信仰が厚い。水天宮の例大祭は5月5日であり、縁日は毎月5日(5日・15日・25日とすることもある)である。これについて総本宮の久留米水天宮では例大祭が5月5日であることから毎月の5日が縁日となったとしているが、東京の水天宮(人形町)では逆に毎月の5日が縁日であることから例大祭が5月5日となったとしている。[要出典]また犬のお産が軽いことにちなみ、戌の日は安産祈願の人で賑わう。
ソース: 水天宮 – https://ja.wikipedia.org
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