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3月度ちよだ皇居周辺
リフレッシュウオーク2019
江戸幕府蔵屋敷の礎石
江戸幕府清水門前のこの場所は、将軍直属家臣の居住地や蔵・馬場、厩といった江戸城付属の施設が置かれました。
平成16年の遺跡発掘調査では、近世初頭に水田地帯を埋め立てて屋敷を築いたことがわかりました。ここに設置した石は、敷地南半に広がる米蔵の礎石の一部で、配置は出土状態を再現しています。
礎石の配列から、二棟の東西に長い建物で、明暦の大火(1657年)で焼失したと考えられます。礎石のうち、大きな石材は柱や壁を支え。
小さな石材は床を支える基礎と考えられます。
大隈重信邸跡
近代になるとこの地は、明治政府の厩が置かれましたが、明治9年には二度の総理に就任し、早稲田大学を創設するなど多方面に活躍した大隈重信が邸宅を構えます。
その後、フランス公使館、憲兵練習場、国営竹平住宅を経て現代を迎えます。
ハクモクレン
モクレン科
〇庭や公園に植えられます。
〇春に芳香のある白い花が咲きます。
〇中国名の木蓮が名前の元になりました。
北の丸公園
北の丸公園は、東京都千代田区の皇居に隣接する国民公園、および同公園の所在地である千代田区の町名である。旧麹町区の区域内である。郵便番号は102-0091。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ザ・フォレスト北の丸(北の丸休憩所)
森林公園として多くの利用者に親しまれている北の丸公園。そんな公園の緑に包まれた一角に、ザ・フォレスト北の丸(北の丸休憩所)はあります。
屋根に設置された太陽光発電パネルから供給されるグリーン電力により、使用電力の一部が賄われており、発電状況などが、モニターで映し出されています。モニターでは、その他に、施設で実施しているエコな取組みや、北の丸公園のみどころなどをご紹介しています。
インフォメーションラックでは、北の丸公園や皇居外苑の散策に便利なウォーキングマップをはじめ、北の丸公園を含む自然、環境関連情報や近隣の文化施設のご案内などを配布しておりますので、お立ち寄りの際に、是非ご利用ください。 豊富なカフェメニューの他売店では野鳥グッズをはじめ菓子パン、スナック菓子、おにぎりといった軽食や飲料水の自動販売機も設置されていますので、気兼ねなくご利用頂けます。
出典:環境省 皇居外苑管理事務所
千鳥ヶ淵さんぽみち
千鳥ヶ淵緑道 (代官町通り経由) 1230m | |
千鳥ヶ淵緑道 (田安門経由) 420m |
日本武道館
東京都千代田区北の丸公園2-3にある武道館。日本伝統の武道を普及奨励し、心身錬磨の大道場としての役割を担うことを設立趣旨とする。日本武道協議会加盟。武道以外の屋内競技場、多目的ホールとしても利用される。管理運営者は公益財団法人日本武道館。単に「武道館」といえば一般的に当館の事を指す。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武道館前 銀杏の木
日本武道館前のイチョウ並木の中ほどに、根元を石垣で囲われた、ひときわ大きなイチョウの木があります。この木は、北の丸公園では一番大きなイチョウの木で、昭和44年に北の丸公園が開園して以来、凡そ50年にわたり“北の丸公園の大イチョウ“と呼ばれて親しまれている大木です。
出典:環境省 皇居外苑管理事務所
江戸城 田安門
田安門は、東京都千代田区北の丸公園内にある、旧江戸城の門。北面する高麗門と西側に矩折りに位置する櫓門からなる桝形門である。1961年に「旧江戸城田安門」として国の重要文化財に指定されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
子爵品川弥二郎像
天保14年(1843年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門と池田六左衛門の長女まつの長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受けるが、安政6年(1859年)に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。元治元年(1864年)の禁門の変では八幡隊長として参戦し、のちに太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。慶応元年(1865年)、木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力した。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。
明治維新後の明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに留学する。内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。明治17年(1884年)、維新の功により子爵を授けられる。
明治24年(1891年)に第1次松方内閣の内務大臣に就任するが、明治25年(1892年)の第2回衆議院議員総選挙において次官の白根専一とともに警察を動員して強力な選挙干渉を行なって死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職を余儀なくされた(ただし、実際の経緯については諸説存在する)。その後は西郷従道と協力して政治団体・国民協会を組織する。
民間にあっては、獨逸学協会学校(現:獨協学園)や旧制京華中学校(現:京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも貢献している。
明治33年(1900年)、流行性感冒(インフルエンザ)に肺炎を併発して死去。享年58。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千代田区立九段坂公園
日本武道館などがあるのが皇居北の丸公園。そこから田安門を出て靖国神社の方に渡る道が九段坂です。
九段坂には歩道橋がかかっていて、そこから見下されるところに巨大な銅像が2つと見慣れないデザインの塔が立っている小公園があります。これが九段坂公園です。
西南戦争、日清戦争、日露戦争を闘いぬき初代陸軍大臣を務めた人物です。
千代田区観光協会のサイトによれば、もとは別の場所にあったものがいつの頃にか移設されてきたとのことで、そのせいなのか公園内でも少し目立たない木陰に置かれています。
少し開けた明るいところに立つのが明治の政治家・品川弥二郎。
内務大臣を務め、産業振興での功績の大きい人物です。
ふたたび千代田区観光協会のサイトによれば、いつ建てられたかわからないということで、公園の財産としては古墳とか城跡とかの文化財レベルです。
大山巌、品川弥二郎とも、現代の目線で言うと、教科書に載っていて誰もが知っていそうな人物(例えば北の丸公園に銅像がある吉田茂のように)ではありませんので、皇居の入口にこんなに大きな銅像があると面食らってしまいます。
いつか外国からのお客さんを案内する時に備えて、予習をしておかねばなりません。
もう一つの塔は、高燈篭(常燈明台)と呼ばれるもので、は1871年(明治4年)に靖国神社(当時は東京招魂社)の献灯として建てられたものです。当時は道の反対側にあったそうですが、道路改修に伴って現在地に移転したものだそうです。
みたび千代田区観光協会のサイトによれば「当時、九段坂の上からは、遠く筑波山や房州の山々まで見渡すことができ、品川沖を行きかう船にとっては大変良い目印として灯台の役目も果たしました。」と書かれています。この辺りの標高がざっくり20メートルくらい、高燈篭が15メートルくらいありますので、あわせれば6~7キロ離れた品川沖からでも見えたということでしょう。しかし、間には皇居があって背の高い櫓なんかもあったと思うのですが、邪魔にはならなかったのでしょうか?
ということで、なにかと想像の外にある物件が並ぶ公園でした。
出典:日本1000公園
【閉店】こだわりや 千鳥ヶ淵店
料理はお新香盛りや一口餃子など居酒屋らしい味わい。木目調を基調とした店内は昭和の大衆食堂の風情で、カウンター・テーブル席もあり。
千鳥ヶ淵緑道
靖国通りから北の丸公園に沿った江戸城の濠。日本有数の桜の名所で「千代田のさくらまつり」の期間中は緑道が花見客で賑わいます。ボート場があり、水面から桜を眺められます。
江戸開府当時の千鳥ヶ淵は、水を確保するためのダムとして機能していました。麹町から流れる小川をせき止めることで水源を確保しています。この水は、江戸城創成期には、本丸と西の丸の間を通って日比谷入江(現在の日比谷公園あたり)に流れ込んでいました。千鳥ヶ淵の名は、冬に都鳥などが多く集まるところからきたとも、V字型の濠が千鳥に似ているからともいわれています。
出典:千代田区観光協会
区営千鳥ヶ淵ボート場
数少ない都心のオアシス「千鳥ヶ淵ボート場」は、春から秋にかけて営業しています。千鳥ヶ淵といえば「さくら」がまず頭に浮かぶかと思いますが、千鳥ヶ淵の魅力は他にもたくさんあります。春から夏にかけての生き生きとした緑あふれる季節や、秋の紅葉も楽しむことができます。
これらのすばらしい景色を、ボートに乗って水上から眺めてみませんか。ボートに乗った人にしか分からない、季節ごとの千鳥ヶ淵が楽しめます。
出典:千代田区観光協会
千鳥ケ淵戦没者墓苑
千鳥ケ淵戦没者墓苑は、日本の戦没者慰霊施設。日中戦争および太平洋戦争の戦没者の遺骨のうち、遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置している。公園としての性格を有する墓地公園とされており、環境省が所管する国民公園等のひとつである。千鳥ヶ淵戦没者墓苑、国立千鳥ケ淵戦没者墓苑、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑とも表記される。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
対墨日本人移住百周年記念
所在地 千代田区麹町1-2 (千鳥ヶ淵公園)
対墨日本人移住百周年記念
メキシコ国民より日本国民へ贈呈
1897 - 1997
作者:セバスティアン
作品名:「移住」
製作年:1997年
材質:スチールプレート
寸法:420×420×240cm
重量:1,000kg
国立劇場 National Theatre of Japan
日本の国立劇場(こくりつげきじょう、英語:National Theatre of Japan)は、東京都千代田区隼町にある劇場である。独立行政法人日本芸術文化振興会が運営する。日本の伝統芸能を上演するほか、伝承者の養成や調査研究も行っている。
歌舞伎・日本舞踊・演劇が演じられる大劇場、文楽・邦楽・琉球舞踊・日本舞踊(小規模公演)・雅楽・声明・民俗芸能が演じられる小劇場で構成されている。また、伝統芸能の公演の他これに携わる人材育成も行っている(歌舞伎俳優や囃子方など。文楽関係は国立文楽劇場で行う)。落語・漫才などが演じられる国立演芸場が隣接しており、2003年には国立劇場裏に伝統芸能情報館が開館し。
なお、毎年4月に行われる日本国際賞の授賞式には、天皇・皇后や内閣総理大臣、衆参両議院議長らが出席する。
新型コロナウイルス感染症の拡大を受けて開催が中止された2020年(令和2年)以外は、2012年(平成24年)から毎年3月11日には政府主催による東日本大震災追悼式(2021年/令和3年で終了予定)がここで行われ、天皇明仁・皇后美智子(当時:2012年 – 2016年度/平成24年 – 平成28年度)、秋篠宮文仁親王・同妃紀子夫妻(2017年 – 2019年度/平成29年 – 平成31年度)、内閣総理大臣、衆参両議院議長らが出席している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神 代 曙
ワシントンへ贈られた染井吉野の種から生まれた桜を東京都の神代植物公園で接木したのが原木です。
桜を植えるにあたり、財団法人日本花の会より推薦を受け、全国最初の植栽地として2000年(平成12年)に国立劇場が植栽し、以降、全国各地に広まっていきました。
花の色がやや濃く遠目にも濃淡が美しい、病気に強い、染井吉野ほど大きくならないなどの特徴があります。
国立劇場での開花は染井吉野より数日早くなっています。
平成31年3月
江戸三大天神 平河天満宮
江戸平河城城主太田道灌公が、ある日菅原道真公の夢を見ました。そして、その翌朝菅原道真公自筆の画像を贈られたこともあり、その夢を霊夢であると思い、文明10年(1478年)に城内の北へ自ら施主となり、天満宮を建立しました。(「梅花無尽蔵」による)、 その後も周囲に多くの梅の木を植え、やがてここを梅林坂と呼ぶようになり、今も皇居平川門内にその名が残っています。
徳川家康公の江戸平河城入城後間もなく、築城のため本社を平川門外に奉遷しましたが、慶長12年(1607年)二代将軍秀忠公に依り、貝塚(現在地)に奉遷されて、地名を本社にちなみ平河町と名付けられました。
徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家、井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼には、宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていました。
また学問に心を寄せる人々は、古来より深く信仰し、名高い盲目の学者塙保己一や蘭学者高野長英等の逸話は、今日にも伝えられています。
現在も学問特に医学や芸能、商売繁盛等の祈願者が多くあります。
出典:平河天満宮
千代田区指定有形文化財(建造物)
平河天満宮銅鳥居
この銅鳥井は、高さ5mにおよぶ鳥居です。支柱にある銘文によれば、天保15年(1844)12月に、麹町周辺の人々によって建設・奉納されたものと思われます。千代田区内には現在沢山の特徴的な鳥居が建てられていますが、この銅鳥居が、区内最大の鳥居です。
同様に銘文からは、この鳥居が御鋳物師・西村和泉藤原政時の作品であることもわかります。「西村和泉」というのは『文政武鑑』に「御鋳物師・西村和泉 並御錺師 かんたかち丁一丁メ」とあるように、元禄から明治期まで12代にわたって神田鍛冶町に居住した鋳物師の一家系を示します。彼らは江戸とその周辺に梵鐘、灯籠、水鉢等々多くの作品を残しました。彼ら12人の当主のうち多くは「西村和泉藤原政時」を名乗りましたが、平河天満宮銅鳥居の作者は、嘉永元年(1848)に没した八代目であると思われます。
なお、新宿区市谷八幡町には、「平河天満宮銅鳥居」によく似た「市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居」(新宿区指定文化財)があります。これは「西村和泉」家五代目当主・西村和泉藤原政平らによって作られた作品です。ただし平河天満宮の銅鳥居には、左右の台座部分に4体づつ獅子の彫刻がのせてあるなど、良く見ると少しずつ違いが見つかってきます。
平河天満宮の銅鳥居は、麹町周辺の町地に住む人々の平河天満宮への信仰の様子を物語ると同時に、江戸時代の鳥居の姿を私たちに教え、その特徴的な意匠で私たちを楽しませてくれます。
出典:千代田区教育委員会
碑 文
南支派遣近衛歩兵第一聯隊第八中隊は 平河天満宮の社紋を奉戴し小林茂隊と称し南支那各地に転戦し、勲功を挙げた。終戦50周年を向かえ生存者及遺族相倚り賛華した戦友を慰霊し萬世泰平を祈念し。ここ所縁の地平河天満宮境内に慰霊碑を建立し禁闕守護の大任に服した近衛兵の名誉と皇室尊崇の誠心を、後世に伝えんとするものである
平成8年(1996)11月15日
附 記
昭和14年(1939)11月15日近衛歩兵第一聯隊第八中隊動員業務開始同月21日動員完結11月28日品川駅より勇躍征途に着く。
11月30日宇品港出帆12月7日、広東省黄浦港上陸翌15年に亘り下記の作戦に参加して偉功を挙げた。翁英作戦、賓陽會戦、南寧地区警備、欽寧附近掃討作戦、江南作戦第二次西路作戦、仏印国境作戦南寧地区警備欽寧撤去作戦、中山附近警備、賓陽會戦に於いて近衛混成旅団は軍司令官より感状を授与。 昭和15年12月12日広東省唐家出帆。昭和16年1月3日東京芝浦港に上陸帰還1月13日復員完結。
南支派遣 近衛歩兵第一聯隊第八中隊 梅鉢会
千代田区指定有形民俗文化財
名称・員数 石牛 一基
所在地 千代田区平河町1丁目7番5号
所有者 宗教法人 平河天満宮
年 代 嘉永5年(1852)
この石牛は、浄瑠璃常盤津節の岸沢右和佐の麹町の門弟らによって、奉納された嘉永5年(1852)は、祭神である菅原道真公の950年忌にあたっています。江戸市中の天満宮では開帳が行われており、平河天満宮でも2月25日から60日間にわたって催されています。
この開帳にあわせて、氏子たちは、石牛のほかにも境内の石造物(狛犬、筆塚、百度石、常夜燈)を奉納しています。
平河天満宮には氏子町の人々による信仰、ならびに氏子地域を越えた学業成就の信仰に基づく奉納物が数多く見られます。その中で、石牛は、常磐津節の一流派である岸沢派の麹町界隈の門弟らによって造立・奉納されたものであり、区内における学芸の広がり及び天神社に対する信仰の様子を物語る資料といえます。
平成23年3月
出典:千代田区教育委員会
平河天満宮 撫で牛・石牛
平河天満宮の境内、鳥居を入り左側の平河稲荷神社参道の分岐点に置かれている一基の石牛である。平河天満宮では「撫で牛」と呼んでおり、石牛を撫でると学芸が上達するという信仰のため参拝者による接触多いためか、頭部や背部については磨耗が見られ、尾部は一部が欠損している。
撫で牛 解説文(石牛 一基)
銘文などから、浄瑠璃常磐津節の岸沢右和佐の麹町の門弟及び雲泰堂柳女門人をはじめとする人々が奉納したものである。
奉納された嘉永5年は、祭神菅原道真公の950年遠忌にあたり、平河天満宮でも居開帳が行なわれ、石牛が一対奉納された(片方の石牛は明治5年までの間に失われ、本件1基のみが現存する)。
石牛 左
石牛 右
撫で牛の所在状況を把握するため、近隣区の天神社並びに牛をまつる神社の現地調査を行ったところ、この石牛は、牛嶋神社〔文政8年(1825)・石製〕、湯島天満宮〔嘉永2年(1849)正月・石製〕についで古い物件である。
千代田区指定有形民俗文化財 石臼 指定 平成二十二年四月
平河天満宮(平河天神)由緒畧記
御祭神
誉田別命 (八幡宮)
菅原朝臣道眞公(学問の神)相殿
徳川家康公(東照宮)
摂末社
平河稲荷神社(商売の神)
大鳥神社(おとりさん)
三殿宮 塩神社(生活の神)
浅間神社(せんげんさん)
祭事例祭4月25日
梅花祭(3月)夏祭(8月)他、恒例祭
御由緒
江戸平河城主太田道灌公が城内の北梅林坂上に文明10年(1478年)江戸の守護神として創祀された(梅花無尽蔵に依る)慶長12年(1607年)二代将軍秀忠に依り、貝塚(現在地)に奉還されて地名を平河天満宮にちなみ平河町と名付けられた。徳川幕府を始め紀州、尾張両徳川家井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼に宮司は将軍に単独で拝謁できる格式の待遇を受けていた。また学問に心を寄せる人々古来深く信仰し、名高い盲学者塙保己一、蘭学者高野長英の逸話は今日にも伝えられている。
現在も学問特に医学芸能商売繁昌等の信仰厚く合格の祈願等も多い。
出典:平河天満宮
千代田区指定有形文化財(歴史資料)
「贈右大臣大久保公哀悼碑」
指定平成4年4月
明治11年(1878)5月14日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通 が暗殺されました。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えました。
また、大久保の同僚であった明治政府の官僚たち(西村捨三、金井之恭、奈良原繁 ら)の間からは、彼の遺徳をしのび、業績を称える石碑を建設しようとの動きが生じ、暗殺現場の周辺であるこの地に、明治21年(1888)5月「贈右大臣大久保公哀悼碑」が完成しました。
「哀悼碑」の高さは、台座の部分も含めると6.27mにもなります。石碑の材質は緑泥片岩、台座の材質は硬砂岩と思われます。
「贈右大臣大久保公哀悼碑」は、大久保利通暗殺事件という衝撃的な日本近代史の一断面を後世に伝えつつ、そしてこの碑に関係した明治の人々の痕跡を残しつつ、この地に佇んでいます。
平成5年3月
出典:千代田区教育委員会
ホテルニューオータニ東京 ガーデンタワー
贈右大臣大久保公哀悼碑
石心亭
石心亭 ホテルニューオータニ – 赤坂見附/鉄板焼 …
400年以上の歴史を有する、広くて由緒ある日本庭園の中にひっそりと佇む、隠れ家的な鉄板焼き店。カウンター席のみ。
出典:石心亭
大谷米太郎
富山県小矢部市(旧・西砺波郡正得村)水落集落出身の実業家。
貧農の家庭に長男として生まれ、31歳になるまで一家を養うために農家の小作として使われる生活を送った。31歳の時、僅かな金(20銭)を親から借りて裸一貫で上京したが、保証人もいない単身田舎から出てきた男にまともな仕事は見つからず、日雇人夫となっていた。
やがて力自慢でならしていた米太郎に稲川部屋から声がかかり、大相撲力士となる。砺波山(後に改名して鷲尾嶽)の四股名で褌担ぎから幕下筆頭にまでなるものの、手の指に障害を負っていたことが原因で幕内に上る事を断念して引退。鷲尾獄酒店を立ち上げ酒屋に転身する。鷲尾獄酒店は現金取引を優先したことで利益を上げ、国技館一手扱いの酒屋となった。この頃米太郎は結婚し、更に儲かる仕事を求めて1919年に鉄鋼圧延用のロールを作る東京ロール製作所を起業。弟の竹次郎(松竹の大谷竹次郎とは同姓同名の別人)を富山から呼び寄せ、竹次郎と二人三脚の事業展開を行なう事になる。
1923年9月1日の関東大震災では米太郎の工場も全焼の被害を受けるが、今度は震災復興に伴う鉄鋼需要に注目。1919年に設立した大谷製鋼所は、建築関係の鉄鋼製品の製造で利益を挙げた。更に材料の特殊鋼製造にも着手し、1939年に大谷製鐵を設立。翌1940年には大谷製鐵・東京ロール製作所・大谷製鋼所が合併し、大谷重工業となった。加えて満州にまで進出し、当時の「鉄鋼王」とまで呼ばれた。
1942年1月、大日本帝国の賞勲局から紺綬褒章を与えられた。
太平洋戦争では満州地域での事業を失うなど損害を受けたものの、朝鮮特需で大谷重工業にも活気が戻る。余勢を駆って星製薬を傘下に収め、同社の本社工場跡地にTOCビルを計画(完成は米太郎死後の1970年)するなど、企業の買収や再建にまで手を広げた。
1964年、東京オリンピックの開催が決まり、東京の宿泊地不足に対して米太郎はホテルニューオータニを建設し、社長に就任。ニューオータニは開業したものの、直後に大谷重工業の経営不振が露呈。開業の翌年には社長の座を追われ、大谷重工業も八幡製鐵が経営支援に乗り出して実権を失う。
1962年、富山県立大谷技術短期大学(現:富山県立大学)の設立のため私財を寄付した。
1968年に脳腫瘍で死去、享年86。死去から9年後の1977年6月、大谷重工業は大阪製鋼と合併し、合同製鐵として新たなスタートを切った。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江戸城 喰違見附跡
1612(慶長17)年、甲州流軍学の創始者・小幡景憲によって縄張りされたと伝わる江戸城外郭門のひとつ。江戸城の城門は枡形門と呼ばれる石垣をコの字型に巡らした強固なものですが、喰違見附は土塁を前後に延ばして道をジクザクにして直進を阻むという、戦国期以来の古い形態の虎口(こぐち=城の出入口)の構造です。
出典:東京とりっぷ
江戸城 四谷見附跡
江戸城三十六見附のひとつ。江戸城半蔵門から武蔵国国府(府中)をへて甲州(今の山梨県)に至る重要なルートの途上に築かれた枡形門。江戸城の外濠を築いた際に、門も築かれて防御を万全なものにしたのです。真田信之が築いたという外濠(真田濠)は埋め立てられ、上智大学真田堀運動場となっています
出典:東京とりっぷ
千代田区立五番町児童遊園
市ヶ谷御門橋台の石垣石の碑
この石垣石は、江戸城外堀跡の市ヶ谷御門橋台に築かれていた石垣の一部です。市ヶ谷御門の枡形は現存しておりませんが、橋台の石垣は、現在もその一部が外堀通りの下に保存されています。この石垣石に刻まれている刻印は、江戸時代初期に御手伝普請で石垣を築いた大名家や職人の印と考えられています。寛永13年(1636)に開削工事が行われた赤坂から四谷・市ヶ谷・牛込橋にいたる掘割
や土手の遺構、同16年(1639)に修築された外郭門の石垣などが、昭和31年「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されました。
なお、平成7年3月に営団地下鉄南北線の市ヶ谷駅構内に開設された「江戸歴史散歩コーナー」では、平成元年から8年にわたって発掘調査された江戸城外堀跡関連遺跡の発堀成果の一部を展示公開しております。
出典:千代田区教育委員会
外濠公園
江戸城総構えの外周をなす外濠の土手は形式的とはいえ軍事施設の扱いであり、明治維新以降も「この土手登るべからず」と記された看板が設置され、立ち入りが禁止されていた。
しかし1921年に法政大学が牛込濠端(現在の市ヶ谷キャンパス所在地)に移転して以来、禁を破って土手に入り込む同大学生が後を絶たず、警察官が出動し学生との小競り合いが生じる例が後を絶たなくなった。事態を重くみた法政大学は、校友であった東京市会議員の協力を得て東京市(当時)に対して「外濠の土手開放」を強く求め、結果として1927年(昭和2年)8月31日に、大学最寄の牛込駅から新見附の間を外濠公園として開放された。その後公園の範囲を拡大し、現在の状態に至っている。「外濠を憩いの場として活用できるようにしたのは法大生であった」とされる。
現在も「東京市 外濠公園」の石標が、新見附橋付近の公園入り口に残されており、往時を偲ばせている(本項の写真を参照)。
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大村益次郎
文政7年5月3日(1824年5月30日) – 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。維新の十傑の一人に数えられる。
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。靖国神社の参道中央に像がある理由もこのためであるとされる。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)、のちに益次郎。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。
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