第13回 下総・江戸川ツーデーマーチ 第2日目 2019年4月14日(日)
野菊の墓碑コース
和洋国府台女子中学校高等学校
和洋国府台女子中学校・高等学校は、千葉県市川市国府台にある中高一貫教育を行う私立中学校・高等学校。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
市川市スポーツセンター
施設利用者専用駐車場
国府台陸上競技場
じゅん菜池緑地(水と緑の憩いの場)
国府台と国分の台地間に深く入り込んだ古くからの沼があり、これを国分沼といいましたが、この沼にはじゅん菜がたくさん生えていたことから、じゅん菜池と呼ばれるようになりました。
昔は近隣の農家の人々が、じゅん菜を摘んで出荷したこともありましたが、昭和の初期に沼が何度も干上がり、ついにじゅん菜は絶滅してしまいました。
戦後、沼は田んぼに変わりましたが、地元の人々から昔のようなじゅん菜池を復元してほしいとの要望を受け、 昭和54年に現在のじゅん菜池緑地へと整備しました。
出典:市川市
蓴菜池緑地案内図
長い形をした公園で、池の周りを遊歩道が囲む感じになっています。自転車が入れないのでお年寄りや愛犬家なども安心して散歩をしていますが、駐車場が狭く、平日でも満車状態なのが難点といえます。長細い形をしているので入口から見ると小さな公園のようにに見えますが、奥に長く伸びており1周するのに結構時間を要します。公園のシンボルともいえる池には鴨が多く住み着いていて、来園者の心を和ませてくれます。
出典:市川市
風を感じて
じゅん菜池緑地の銅像
土田副正作
出典:市川市
小塚山公園(市民の森)
園内には、シラカシ・イヌシデ・クヌギ等の雑木が密生した典型的な北総地方の自然林である市民の森があり、森の中には遊歩道が設けられています。
また隣接したフィールドアスレチックでは、本格的なコースが楽しめます。
出典:市川市
小塚山フィールドアスレチック
大人も楽しめる本格的コース
やっと涼しくなったと思ったら、一気に冬に突入してしまいました。とはいえ、寒くても体を動かせば暖かくなるものです。運動は、暑い夏より今の季節の方が向いているかもしれませんね。お子さんと一緒にフィールドアスレチックはいかがでしょうか。小塚山フィールドアスレチックなら無料で楽しむことができます。
出典:豊友ハウジング
堀之内貝塚公園
史跡・堀之内貝塚
今から約3000年前というはるか昔に作られたという馬蹄形貝塚です。園内には駒形様の祠や貝塚の碑などが祀ってあります。散歩道の至る所に貝殻が見られるので、一味違った気分で散歩することができます。
歴史博物館
大きな駐車場があります。この施設の利用者のみが駐車できることになっているので、公園の利用が目的でも博物館を見学してみましょう。
考古博物館
立派な建物の博物館には市川市の原始や古代の資料が展示されています。市川市に住まいを考えている人は是非一度目を通して見てはいかがでしょう。
出典:市川市
寄り添う銀杏の大樹
昭和58年11月3日に市川市天然記念物指定
愛宕神社イチョウ
この大イチョウは南北に2本並んで立っています。幹の太さとしては例はありません、昔に比べて木と木の間が狭くなったように感じるという声も聞かれ成長している、様子がうかがえます。
2本とも正確な樹齢は分かりませんが、神社が建てられたころとすれば約350年前後と思われます。北側の幹に大きくえぐられた古い跡があります。これは約40年前ごろ落電があったためです。
2018年1月吉日
出典:市川市
矢切神社
宝永元年(1704年)6月29日の長雨により、江戸川が大洪水を起こし、水高が地面より8尺余り(約2m50cm)となった。当時の矢切の民家は江戸川沿岸にあったため、多数の死者を出し、産業も甚大な被害を受けた。災害から逃れるように村民が台地上に移住し、鎮守として京都東山より稲荷を勧請して祀ったのが矢切神社である。かつては稲荷神社と呼ばれていた。 なお、矢切村(上矢切、中矢切、下矢切)全体の総鎮守として香取神社があったが、この洪水を契機に上矢切に神明神社、下矢切に矢切神社が設けられ、香取神社は中矢切の鎮守となった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
野菊の墓 文学碑
僕の家といふのは、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云っている所。崖の上になっているので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一ゑんが見渡される。秩父から足柄箱根の山々、富士の高嶺も見える。東京の上野の森だと云ふのもそれらしく見える。
村はずれの坂の降口の大きな銀杏の樹の根で民子の来るのを待った。こゝから見下ろすと少しの田圃がある。色よく黄ばんだ晩稲に露をおんでシットリと打伏した光景は、気のせゐか殊に清々しく、駒のすくような眺めである。
伊藤佐千夫著 野菊の墓より
昭和39年10月
門人 土屋文明織
野菊について
「野菊」という花は、山野に咲く数種の菊を総称したものであり、「野菊」という名の花はありません。関東近郊で一般に「野菊」と呼ばれる花は、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクなどがあり、いずれも白か淡青紫色で田のあぜや川べりに生える多年草です。
さて、小説『野菊の墓』には、夫「民子さんはどう見ても野菊の風だ」民子が「夫さんはりんどうのようだ」という記述がありますが、民子が好きだった「野菊」とはどのような花だったのでしょうか。
出典:矢切地区風致保存会
〔この野菊は、㈱コーヤマの協力により、寄贈・管理されています。〕
松戸~矢切案内
矢切・栗山地区観光案内図
施設紹介
❶浅間神社の極相林 国道6号線の立体交差北側ある海抜28mの独立一帯は、長い間神域として保護されましたのでムクノキ、タブノキ、ヤブニッケイが自然林として残されています。特にヤブニッケイは、ほぼ全域に高木として繁茂しています。昭和41年に極相林として県の文化財に指定。 | |
➋野菊の墓文学碑 伊藤左千夫の処女小説「野菊の墓」は、明治30年代の矢切地方の牧歌的な風景が描かれています。下矢切の西蓮寺境内にその一部を刻んで昭和40年5月に建てられた野菊の墓文学碑があります。 | |
➌矢切神社 昔は、矢切の民家は江戸川沿岸にありましたが、宝永元年(1704年)6月29日の長雨による洪水のため、村民は台地上に移り居住したと言われています。そして、当地に鎮守として京都東山より稲荷を勧請して祀りましたのが矢切神社であります。 かつては稲荷神社と呼ばれていました。 | |
➍戸定が丘歴史公園 戸定が丘歴史公園内の戸定邸は、水戸徳川第11代昭武公が、景勝の地「戸定が丘」に明治17年、大名屋敷の建築形式を踏まえて建てられたものです。庭園は、芝生に樹木の刈込みを配した和洋折衷式の早期の造園例で、県の名勝に指定されています。 また、戸定歴史館では、松戸徳川家関連の資料や調度品等を、保存公開しています。 | |
➎矢喰村庚申塚 下総の国府が近くにあったために記録に残る大きな戦いが7度ありました。 二度と再び戦いの来ない平和な日々と健康を求め先祖の供養のため矢切りの渡し口や街道すじに庚申塚、地蔵様が建てられました。昭和61年に庚申塚の整備と併せ、平和としあわせを祈る「やすらぎの像」が現在の場所に設置されました。 | ➏矢切の渡し 江戸時代初期に始められたものといわれています。当時は、矢切村と柴又村(東京都葛飾区)の地域住民の生活渡船として利用され今日にいたっております。 ※運航日 3月お彼岸から11月末日までは毎日運航12月1日 から3月お彼岸前までは土・日曜日・祝日のみ運航 (ただし1月1日~1月7日は毎日運航) |
➐矢切・栗山地区斜面緑地 下総台地と境となる崖線状となって帯状に分布する傾斜林を形作っており、松戸市の地形の特徴が表われています。 崖下部には湧水が見られ、湿性の植物が多く、また、斜面部には、クヌギ・コナラ等の二次林とシラカシ・スダジイ等の自然林が見られます。 | ➑江戸河川敷緑地 利根川水系の江戸川は、建設省の管理のもとに、首都圏へ大量の水を供給しています。 また、広い河川敷は増水時における水量調整機能を持っていますが、広域避難地としての役割やレクリエーションの場(都市緑地)としても利用できるよう、広く市民に解放されています。 |
➒川の一里塚 市民に河川への親しみを深めていただく場と共に、非常時における水防活動の拠点とし、また、河川の位置を知らせるための目印としても利用するものです。 この事業は、建設省が基盤整備を行い。松戸市が諸施設を設置したものです。 矢切の渡しをイメージしたモニュメントがあります。 | ➓柳原水閘 「柳原水閘(やなぎはらすいこう)」は、坂川流域の水害軽減のために、1904年(明治37年)に「坂川普通水利組合」によって設けられた煉瓦造りの4連アーチの樋門です。当時の煉瓦造りの樋門としては大規模であり、明治時代の煉瓦榮造技術をつたえ、治水事業の歴史を語る貴重な遺産です。 1995年(平成7年)松戸市文化財に指定されました。 |
江戸川河川敷
江戸川河川敷
松戸~矢切案内
矢切地区観光案内図
みどころあんない
❶浅間神社の極相林 国道6号線の立体交差北側ある海抜28mの独立一帯は、長い間神域として保護されましたのでムクノキ、タブノキ、ヤブニッケイが自然林として残されています。特にヤブニッケイは、ほぼ全域に高木として繁茂しています。昭和41年に極相林として県の文化財に指定。 | |
➋野菊の墓文学碑 伊藤左千夫の処女小説「野菊の墓」は、明治30年代の矢切地方の牧歌的な風景が描かれています。下矢切の西蓮寺境内にその一部を刻んで昭和40年5月に建てられた野菊の墓文学碑があります。 | |
➌矢切の渡し 江戸時代初期に始められたものといわれています。当時は、矢切村と柴又村(東京都葛飾区)の地域住民の生活渡船として利用され今日にいたっております。 ※運航日 3月お彼岸から11月末日までは毎日運航12月1日 から3月お彼岸前までは土・日曜日・祝日のみ運航 (ただし1月1日~1月7日は毎日運航) | |
➍矢切神社 昔は、矢切の民家は江戸川沿岸にありましたが、宝永元年(1704年)6月29日の長雨による洪水のため、村民は台地上に移り居住したと言われています。そして、当地に鎮守として京都東山より稲荷を勧請して祀りましたのが矢切神社であります。 かつては稲荷神社と呼ばれていました。 | |
➎矢喰村庚申塚 下総の国府が近くにあったために記録に残る大きな戦いが7度ありました。 二度と再び戦いの来ない平和な日々と健康を求め先祖の供養のため矢切りの渡し口や街道すじに庚申塚、地蔵様が建てられました。昭和61年に庚申塚の整備と併せ、平和としあわせを祈る「やすらぎの像」が現在の場所に設置されました。 | ➏野菊苑 |
➐矢切・栗山地区斜面緑地 下総台地と境となる崖線状となって帯状に分布する傾斜林を形作っており、松戸市の地形の特徴が表われています。 崖下部には湧水が見られ、湿性の植物が多く、また、斜面部には、クヌギ・コナラ等の二次林とシラカシ・スダジイ等の自然林が見られます。 | ➑江戸河川敷緑地 利根川水系の江戸川は、建設省の管理のもとに、首都圏へ大量の水を供給しています。 また、広い河川敷は増水時における水量調整機能を持っていますが、広域避難地としての役割やレクリエーションの場(都市緑地)としても利用できるよう、広く市民に解放されています。 |
➒川の一里塚 市民に河川への親しみを深めていただく場と共に、非常時における水防活動の拠点とし、また、河川の位置を知らせるための目印としても利用するものです。 この事業は、建設省が基盤整備を行い。松戸市が諸施設を設置したものです。 矢切の渡しをイメージしたモニュメントがあります。 | ➓里見公園 |
⓫じゅん菜池緑地 | ⓬柴又帝釈天 |
水辺の健康エコロードマップ
歩くことは・・・。
健康づくりのために、最も手軽に行うことができるのはウオーキングで、一日の歩数は1万歩が理想とされています。一般的に1万歩を速足で歩くと約300 ㎉のエネルギーが消費されます。ウオーキングを行う時の目安は、「ややきつい」と感じる位が適当で、時間にして20分~30分以上続けると効果的です。
国府台天満宮 辻切り
毎年1月17日、悪霊や悪疫が村へ侵入することを防ぐ「辻切り」という民俗行事が行われます。人畜に害を与える悪霊や悪疫が集落に侵入するのを防ぐため、各集落の出入口にあたる四隅の辻を霊力によって遮断してしまうことから起こった呼び名で、古くから行事として伝えられてきたものです。
室町時代から続くこの行事も、市川市ではここ国府台天満宮に残るだけとなりました。
藁でつくった2メートルほどの大蛇に御神酒を飲ませて魂を入れたあとに、集落の四隅に掲げます。
大蛇は一年間集落を見守ります。
出典:市川市観光協会
里見公園
里見公園は下総台地の西端、江戸川に面した台地上にあり、このあたりは国府台と呼ばれ、ここに下総国府が置かれ、下総国の政治や文化の中心でした。
その後、室町時代天文7(1538)年10月、足利義明は里見義堯等を率いて国府台に陣をとり北条氏綱軍と戦いました。しかし北条軍が勝利をおさめ義明は戦死し、房総軍は敗退しました。続いて永禄7(1564)年正月、里見義堯の子義弘は再度国府台城で北条軍と対戦しましたが、この合戦も北条軍の大勝で終わり、以降この土地は北条氏の支配するところとなりました。
江戸時代に徳川家康が関東を治めると国府台城は江戸俯瞰の地であることから廃城となりました。明治から終戦まで国府台は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街として栄えました。
昭和33年、市川市はこの由緒ある古戦場を記念するために、一般の人々の憩いの場として里見公園を開設しました。
出典:市川市
国 府 台 城
国府台城は現在の千葉県市川市国府台付近にあった日本の城である。城名は「市河城」「鴻之台城」とも。ただし市河城に関しては、国府台城東側の真間山上の弘法寺付近にあったともされ、別の城、あるいは存在時期に鑑みて、元となった城とみる説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
紫 烟 草 舎
「からたちの花」「砂山」などの作詩で親しまれている詩人・北原白秋(明治18年~昭和17年)は、大正5年の夏から約一年間、当時小岩にあったこの離れにおいて、すぐれた作品の創作を続けた。白秋自身、紫烟草舎と名づけたこの建物はその後、江戸川の改修工事のためにとりこわされ、解体されたままになっていた。
たまたま、本建物の所有者、本市在住の湯浅伝之焏氏の厚意ある提供を受けた市川市は、白秋をしのぶようすとして、家の間どり、木材などすべて当時のままに、この里見の地に復元した。
復元の地を、ここにもとめたのは、小岩に移り住む前、白秋が真間の亀井院に住んでいたこと、小岩に移ってからも対岸の江戸川堤から眺めるこの里見の風景や万葉の昔よりゆかりの深い葛飾の野を、こよなく愛していたことによる。
出典:市川市
里見公園 「羅漢の井」
里見公園の南斜面下にあり、里見氏一族が国府台城に布陣した際の飲用水として使用したと伝えられ、高台にあって水源が乏しいにも関わらず、一年中清水が湧いています。一説には弘法大師が巡錫の折に発見し、里人達に飲用水として勧めたとも伝えられています。国府台は高台であるため飲用水を得るためには深い井戸を掘らねばならず多額の費用がかかりました。この伝説もここの住民にとって、いかに水が貴重なものであったかを物語っています。
また、浮世絵師である長谷川雪旦・雪堤の父子が描いた、「江戸名所図会」には『総寧寺羅漢井』という絵もあり、井戸の周りに人々が集まっている様子が描かれています。
出典:市川市
和洋女子大学
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