5月度ちよだ皇居周辺
リフレッシュウオーク2019
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江戸城清水門
清水門は、東京都千代田区北の丸公園内にある、旧江戸城の門。東面する高麗門と南側に矩折りに建つ櫓門からなる桝形門である。1961年に「旧江戸城清水門」として国の重要文化財に指定されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北の丸公園露場
ここでは、気温、湿度、気圧、降水量、感雨(降水の有無)、積雪の深さを観測します。
このような気象観測を行う場所を露場と呼びます。
重要な気象観測を行っていますので、許可なくこの中に入らないで下さい。
出典:東京管区気象台
東京国立近代美術館 工芸館
工芸館の建物は、旧近衛師団司令部庁舎を保存活用したものです。この建物は、明治43(1910)年3月、陸軍技師田村鎮の設計により、近衛師団司令部庁舎として建築されました。2階建煉瓦造で、正面中央の玄関部に小さな八角形の塔屋をのせ、両翼部に張り出しがある簡素なゴシック様式の建物です。丸の内や霞ヶ関の明治洋風煉瓦造の建物が急速に消滅していくなかで、官庁建築の旧規をよく残しており、日本人技術者が設計した現存する数少ない遺構として重要な文化財です。
出典:独立行政法人国立美術館
駐日英国大使館
駐日英国大使館は、イギリス政府が日本に設置している大使館である。所在地は東京都千代田区一番町一。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
半 蔵 門
半蔵門は、江戸城にある門の1つである。 城の西端に位置し、まっすぐ甲州街道に通じている。大手門とは正反対の位置にある。住所は東京都千代田区麹町1丁目。また東京メトロ半蔵門線半蔵門駅周辺の呼称。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
半 蔵 門
江戸城内郭門の一つで、「こうじまち口」とも呼ばれ、四谷門とともに甲州街道の要衝となっていました。名前の由来は、伊賀者の服部半蔵がこのあたり配下とともに屋敷を拝領していたという説があります。ほかにも、この門から城内に入る山王祭礼の象の山車が枡形門をくぐることができず。半分だけしか入らなかったという説もあります。門は1620年(元和6年)仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗ほか6名の東国大名により築造されました。
江戸時代には、半蔵門から入り北に進み、現在の代官町通りを通って、竹橋門(現在の竹橋駅付近)に抜けることができました。
1871年(明治4年)に渡櫓門は撤廃され、現在は高麗門だけが残り、皇室の皇居への通用門として使用されています。
半蔵門「旧江戸城写真帖1871年(明治4年)撮影
東京国立博物館蔵
江戸城を取り巻く地形と文化財
出典:千代田区
重要文化財(建造物)指定昭和36年6月7日
旧江戸城 外桜田門
現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。
外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外枡形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(320坪)。建築されたのは寛永年間(1624~44)とされ。現存する門は、寛文3年(1663)に再建された門がもとになっています。大正12年(1923)の関東大震災で破損し、復元されました。万延元年(1860)3月3日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。
旧江戸城と外桜田門 「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)
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楠 木 正 成
楠木 正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。
元弘の乱(1331年 – 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。
南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」(『太平記』、儒学思想上最高の英雄・名将)、「多聞天王の化生」(『太平記評判秘伝理尽鈔』、「軍神の化身」の意)、「日本開闢以来の名将」(江島為信『古今軍理問答』)と称された。『太平記』では奇想天外な策と智謀に長けた「不敵」(無敵)の戦術家としての活躍が印象的に描かれるが、それは正成の軍才のごく限定された一面に過ぎず、史実では刀を振るえば電撃戦を得意とし六波羅探題を震撼させた猛将であり(『楠木合戦注文』『道平公記』)、築城・籠城技術を発展させ軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家であり(楠木流軍学の祖)、そして畿内にいながらにして日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した不世出の戦略家だった(『梅松論』『国史大辞典』)。
明治以降は「大楠公」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。また、湊川神社の主祭神となった。
戦前までは、正成の忠臣としての側面のみが過剰に評価されたことで、対比として主君である後醍醐天皇やその建武政権の政策への低評価に繋がり、同時代への実証的研究を困難にさせた。しかし、2000年前後以降は、主君後醍醐の政策は前後の時代との連続性が見られることが指摘され、『太平記』で創作されたような暗君像は改められる方向にある。正成についても、何か一つの側面に縛られるような人間ではなく、武将・官僚・商人など、多面的な顔と才能を持つ人物であったことが明らかになってきている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
皇 居 外 苑
厳密には皇居前広場と1969年(昭和44年)に開園した北の丸公園、それに皇居の周りの内濠に沿った緑地も含まれるが、通常は皇居前広場だけを指すことが多いため、本項ではこれを扱う。都市計画法第11条(都市施設)に基づく名称は、北の丸公園、日比谷公園と合わせて「東京都市計画公園第5・8・23号中央公園」である。広大な広場のほかに、桜田門や二重橋といった東京を代表する歴史的にも貴重な建築物を見ることができる。
入苑は無料。広く開放されており開苑・閉苑の概念自体ない。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大 手 門
元は追手門(おうてもん)と書かれ、高知城など、城によっては現在も追手門と表記しているところもある。これに対して背面の門は搦手門と呼ばれる。
防御のために厳重な築造がされ、大規模な櫓門を開いたり石塁などにより枡形をしていることが多い。見た目も大きく、目立つように造られる。また、橋は土橋であることが多い。
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三の丸尚蔵館
三の丸尚蔵館とは、東京都千代田区千代田の皇居東御苑内にある博物館施設。宮内庁が所管する。 昭和天皇の死後の1989年6月に昭和天皇の遺族から寄贈され国庫に帰属した美術品を保存、研究、公開するための施設として、1992年9月に皇居東御苑内に建設され、1993年11月3日に開館した。
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ユリ科
アマドコロ
菖 蒲 田
この菖蒲田には、84品種のハナショウブが植えられています。皇居東御苑造成中の昭和41年(1966)に明治神宮御苑の菖蒲田から株を譲り受けて以来、大切に守り育てているものです。
花の見頃:6月上旬~中旬
アヤメの仲間の生育場所の違い
ハナショウブ
ハナショウブは、山野に自生するアヤメ科のノハナショウブをもとに改良された園芸品種です。
品種改良は江戸時代から盛んになり、改良された地域によって、江戸系、肥後系、伊勢系の三系統に大別され、ここには江戸系が植えられています。
🔶江戸系 庭園などで群生の美しさを鑑賞するのに向き、風雨に強く、草丈の高いものが多いです。また、平咲きの花が多いのも特徴で多様な花形が見られます。 | 🔶肥後系 金屏風の前で鑑賞するなど鉢植えに適し、大輪の豪華な花が多いのが特徴です。 | 🔶伊勢系 鉢植え向きで、花弁が垂れ下がり、優美で繊細な花が多いのが特徴です。 |
アヤメ科の植物は、「いずれあやめかかきつばた」というように区別が難しい
ので、その違いを解説します。
アヤメの仲間の見分け方
カキツバタ | ハナショウブ | ノハナショウブ | アヤメ | イチハシ |
花期:5月中旬~下旬 外花被片の中央部に白斑があり、基部は帯黄色 | 花期:5月下旬~6月下旬 外花被片の中央部に淡黄色の細い斑点 | 花期:5月下旬~6月下旬 外花被片の中央部に淡黄色の細い斑点 | 花期:5月上旬~中旬 外花被片の中央 から基部にかけて黄色の網状の模様 | 花期:4月下旬~5月中旬 外花被片の上面中央にとさか状の突起 |
幅が広く、中脈はない | 幅は中位で、中脈が太い | 幅が細く、太い中脈が目立つ | 幅が細く、中脈はあるが目立たない | 幅が広く、中脈は目立たない |
二の丸庭園(皇居東御苑)
江戸城二の丸は本丸の東側に位置し、3代将軍家光の命で1630(寛永7)年に小堀遠州の手により遊行のための庭園を造成。家光と秀忠との茶会が催されています。2代将軍・徳川秀忠が死去した後の1636(寛永13)年には二の丸御殿が建てられ東側に庭園を配置しました。現存する庭園は往時の庭園を昭和43年に復元したものです。
出典:東京とりっぷ
ヒレナガニシキゴイ
上皇陛下の御発案により、インドネシアのヒレナガゴイと日本のニシキゴイを交配して生まれました。二の丸池で長い鰭や尾鰭をなびかせて泳ぐ姿が見られます。
皇居東御苑 案内図
皇居東御苑のみどころ
大番所 | 松の大廊下跡 | |
富士見櫓 | 石室 | |
富士見多聞 | 展望台 | |
天守台 | 北詰橋門(出入門) | |
桃華楽堂 | 中之門跡 | |
中雀門跡 | ||
本 丸 | ||
野草の鳥 | バラ園 | |
果樹古品種園(東・西) | 桜の島 | |
竹林 | 本丸大芝生 | |
ツバキ園 | ||
汐見坂 | 白鳥濠 | |
諏訪の茶屋 | 平川門(出入門) | |
同心番所 | 百人番所 | |
二の丸 | 二の丸雑木林 | 新雑木林 |
梅林坂 | 菖蒲田 | |
二の丸庭園 | 都道府県の木 | |
三の丸 | 三ノ丸尚蔵館 | 大手門(出入口) |
平 川 門
大手門が正門であるのに対して、この門は、御殿に勤めていた奥女中などの通用門として使用されていました。大手門と同様、厳重な防御の構造になっています。また、城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたといわれています。小さな脇門は、平川豪の中に伸びた、「帯曲輪」と呼ばれる細長い渡り堤につながっています。
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