小江戸川越ウオークⅣ
・成田山別院
・初雁公園(三芳野神社)
・濯柴公園
・菓子屋横丁
クレアモール・八幡通り・中央通り周辺地区
都市景観形成地域
川越駅・本川越駅を核とした中心商業地とその周囲の住宅地を含む地区は、景観法に基づく川越市景観計画の都市景観形成地域に指定されています。
中心商業地の個性と秩序ある町並みづくりや周囲の住宅地の落ち着いた環境を守り育てるために景観づくりのルールを定めています。このルールを守るとともに、建築行為等に際して事前に市に届出をする必要があります。
🔶主な景観づくりのルール🔶
1.建築物や店舗、屋外広告物は、町並みの魅力向上に寄与するデザインとする。
2.建築物の外壁等の色彩は、周囲の町並みや環境との調和を図る。
3.クレアモールに面する建築物は道路境界線から1m以上壁面を後退させる。
4.クレアモール、中央通りに面して門、塀等の設置は極力避ける。
5.規模の大きな建築物は、町並みの連続性や、日照、通風など周知の環境に配慮する。
出典:川越市都市計画部都市景観課
『小江戸蔵里』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。
市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成22年10月に誕生しました。
施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。
これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。
なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。
出典:小江戸蔵里
出世稲荷神社について
出世稲荷神社は、江戸時代(天保2年/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。
名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。
Iすぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。
出典:カワゴエール
イ チ ョ ウ
いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。
向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。
樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。
公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。
雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。
昭和33年3月6日
川越市教育委員会
どろぼう橋
むかし、どろぼう橋がまだ木造の細い橋だったころ、町で泥棒をはたらいた者が町奉行の捕り方(罪人を捕らえる役目の人)に追われ、この橋をわたり喜多院に逃げ込みました。喜多院寺領は、江戸幕府のご朱印地なので、捕り方は境内に入ることができません。泥棒は、喜多院の大師さまにお参りをし、罪を深く悔い改め、善人になったといいます。
それ以来、この橋を「どろぼう橋」と呼ぶようになりました。
出展:カワゴエール
どろぼうばしの由来
所在地 川越市小仙波町一丁目
昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。
ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。
この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。
昭和五十八年三月
出典:埼玉県
喜多院 慈恵堂
喜多院は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参拝客が訪れる。
ソース: 喜多院 – https://ja.wikipedia.org
小江戸川越七福神
喜多院(天台宗)小仙波町1-20-1
第三番 大黒天
大黒天は古代インドの神様で、密教では大自在天の化身、生産の神様です。くろ(黒)くなってまめ(魔滅)に働いて大黒天を拝むと、財宝糧食の大福利益が得られます。
小江戸川越七つの音風景
水琴窟(すいきんくつ)
水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。
甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空間に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。
秋の七草 萩
しら露もこぼさぬ萩のうねり哉
芭蕉
萩の名は古い株から芽を出す生え芽(ぎ)から出たといわれ、山萩の別名です。山野に多く、七~九月に紅柴色の蝶形花を開きます。
花言葉―想い
喜多院 多宝塔
境内にそびえる朱色の多宝塔
寛永16年(1639/江戸時代)に建造され、現在埼玉県の有形文化財に指定されています。
この多宝塔は、江戸時代の大工棟梁「平内政信」が建造。平内政信は、全5巻からなる木割書「匠明」を著した人物で、喜多院多宝塔以外に、和歌浦天満宮(和歌山市)や輪王寺常行堂(日光市)なども建造しています。
現在は、本堂の斜め前に建てられている多宝塔ですが、もともとは山門前にある「白山権現」と「日枝神社」の間の古墳上に建てられていました。その後、2度の移築をし現在地にあります。
江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れ、境内で一際鮮やかで目を引きます。喜多院を訪れた際は、是非みておきたい建物の1つです。
出典:カワゴエール
国指定重要文化財
川越大師 喜多院案内図
伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。
その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。
正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。
江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(1611)11月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。
江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。
戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。
現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。
1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。
文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。
出典:喜 多 院
川越市教育委員会
WELCOME TO
KAWAGOE
A CITY WHERE
HISTORY LIVES
成田山川越別院(本行院)
成田山川越別院本行院)は、埼玉県川越市にある真言宗智山派の寺院である。成田山新勝寺(千葉県成田市)の別院で、通称は川越不動。毎月28日には蚤の市(骨董市)で、11月には火渡り祭(柴灯護摩)で賑わう。本尊は不動明王。
歴史
嘉永6年(1853年)石川照温が廃寺になっていた久保町本行院を復興し創建。
明治10年(1877年)成田山川越別院本行院を称する(成田山最初の別院)。
交通アクセス
西武鉄道新宿線本川越駅から徒歩15分
東武東上線川越市駅から徒歩17分
東武東上線・JR川越線川越駅から徒歩約22分
ソース: 成田山川越別院本行院 – https://ja.wikipedia.org
七曲り
成田山川越別院のほど近く。県道15号線から1本路地に入って行くと、そこはくねくね折り曲がった細道が続く「七曲がり」ワールド!
七曲がりとは、川越城への敵の侵入を防ぐ為に造られた道で、わざと折れ曲がった道をつくることで敵の進軍を真っ直ぐに進めない様にしました。
ここ周辺は建物こそ新しい住宅が建ち始めてはいますが、道は当時の面影を残しています。
川越の町には、今でも「道のワナ」が多く残されています。例えば「鈎(かぎ)の手」「丁字路(ていじろ)」「袋小路」など。もしかしたら川越を観光・散策していると、ふと当時のワナに迷い込むかもしれません!
出典:カワゴエール
永島家住宅(武家屋敷)(市指定・史跡)
永島家住宅は、旧南久保町通り東よりの、川越城南大手門に近い位置にあります。伝聞によれば、旧川越藩御典医の屋敷跡であると言います。
松平大和守家七代が川越藩主をつとめた明和4年(1767)~慶応2年(1866)当時の城下絵図によると、この場所には250石から300石の藩士が居住しました。
当家屋の小屋組は叉首構造で、棟の高さは三段となっており、痕跡などから、現在の住形態になるまで大きく2回の増改築を実施したと推測されます。当初形態を復元すると、玄関及び台所の位置は不明ですが、現在の玄関から床の間付きの座敷に至る諸室と東側に張り出す内向き諸室に分かれ、公私空間を区分した武家住宅の特質を残す遺構と考えられます。
また、松平大和守家記録による武家住宅の建築規則(明和5年6月2日条)の範囲内であり、他藩武家住宅の事例(信州上田藩ほか)と比較してもほぼ相違なく、武家住宅であることにまちがいありません。
また、増改築の手が加えられているものの、当初形態に復元可能な建物であり、敷地内は後年植栽が加えられていますが、屋敷周りなど当時の状況をよく保存しています。
現在埼玉県下三城下町(川越、忍、岩槻)では、武家屋敷の遺構はほとんど残されていません。また、関東圏内でも残存事例はわずかで、学術的にも貴重な遺構と言えます。
平成18年3月27日指定
出典:川越市教育委員会
七曲り
川越城下の武家地は、城の近くに上級武士、離れるに従って中・下級武士、街道筋には足軽屋敷が配置されていた。こうした構成は江戸時代を通じて変化はないが、家臣団の規模により武家地の領域には変動があった。
松平大和守の入封に伴い、武家地は大きく拡大する。
秋元家時代(1704~1767)の川越城下の様子を描いたとされる『秋元但馬守様川越城主之頃図』と松平大和守家時代(1767~1866)の城下図とされる『川越城下図』と比較すると、秋元家時代に城下の外であったところにまで武家地が拡大し、これに伴い道もつくられたことがわかる。ここでの道のつくられ方は直線路となっている。一方、秋元家時代に郷分町(村が町場化したところ)や燈明寺(東明寺)・泰安寺の寺域となっていたところにまでも武家地が拡大し、同様に道がつくられたことがわかる。こちらでは、郷分町であったところや寺域境であったところに沿うように道がつくられている。この拡大範囲の道は非常に屈曲が多い、郷分町であった側は、通称「七曲り」と呼ばれるようになった。なお、「七曲り」とは道が幾重にも折れ曲がっている場所のことをいう。
ふたつの城下図から「七曲り」は、江戸時代も後半になってつくられた屈曲路であることが明らかであるが、防衛上の目的からつくられたのかどうか定かではない。『秋元但馬守様川越城主之頃図』では既に屋敷割の原型がつくられており、松平大和守家時代にはその屋敷割を踏襲するかたちで武家地は拡大された。そして、この屋敷割に沿うとともに各屋敷への出入りを容易にするために道がつくられ、結果的に複雑な屈曲路をかたちづくることになったのであろう。「七曲り」は、武家地の広大という事実が生んだ道であること。そして、今に江戸時代の名残を留める道であることは間違いない。
出典:川越市教育委員会
川越火力発電所跡地
東京電力川越支社は、かっては川越火力発電所でした。
明治37年(1904年)埼玉県下で初めての石炭火力発電所として100kw発電機2台を使用し、川越町での電灯供給を開始しました。
川越電気鉄道
発電所で作られた電気を使い、明治39年10月には川越~大宮間を結ぶ電気鉄道が開通し、チンチン電車の愛称で親しまれました。なお、駅の跡地は、川越市立中央公民館となっています。
出典:東京電力パワーグリッド㈱埼玉県電灯発祥の地
三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社
付明暦2年棟礼(県指定・建造物)
本殿正面
三芳野神社本殿・幣殿・拝殿平面図
平安時代のはじめ大同年間(806~810)の創建と伝え、三芳野十八郷の惣社として宗敬をあつめました。太田道灌は川越城築城にあたって当社を鎮守とし、江戸時代以降は徳川幕府直営の社として庇護を受けました。
寛永元年(1624)幕府の命をうけて川越城主酒井忠勝が奉行となり再興に着手、幕府棟染鈴木近江守長次が造営にあたりました。その後、明暦2年(1656)川越城主松平伊豆守信綱が奉行となり、幕府棟染木原義久が改修を加えました。社殿の屋根はこけら葺でしたが、弘化4年(1848)幕府棟染甲良若狭により瓦葺に改められ、さらに大正11年銅板葺に改められました。
三芳野神社社殿は本殿、幣殿、拝殿からなる権現造りで、屋根はこけら葺形の銅板葺です。外部は朱漆塗を基調とし、内部は軸部を朱漆塗、建具と天井を黒漆塗とします。
本殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、四周に縁と高欄をまわし、正面に木階をもうけ、前面は幣殿に接続します。身舎内部は内陣外陣に分割し、内陣正面の柱間三間に板唐戸、外陣正面は中央間に板唐戸、両脇間に蔀戸を装置します。組物は出組で、幣殿に面した正面だけ出三斗とします。中備は極彩色をほどこした蟇股です。
幣殿は正面一間、側面二間の両下造で、背面は本殿、前面は拝殿に接続します。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束になっています。
内部は拭板敷に小組格天井です。
拝殿は正面三間、側面二間の入母屋造で、背面は幣殿に接続します。三方に縁高欄をまわし、背面柱筋に脇障子をたて、正面に一間の向拝をもうけます。組物は出三斗で、中備は外部が蟇股、内部が間斗束です。内部は拭板敷に小組格天井です。向拝は大面を取った角柱を陸梁形の頭貫でつないで、両端に獅子鼻を付け、連三斗を組んで中備に蟇股を飾ります。裏側には花木を篭彫した手狭を飾ります。
三芳野神社社殿の造営経過はいささか複雑です。
寛永元年(1624)の造営は、慶安2年(1649)松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」に詳細に記されていますが、そこに描かれた社殿は、流造ほ本殿と入母屋造の拝殿のみで幣殿は存在せず、現社殿とは大きく異なっています。
平成元年から平成4年にかけて実施された解体修理の報告書『三芳野神社社殿修理工事報告書』によれば、蟇股と各部取合わせを調査した結果、本殿・幣殿・拝殿の計二十三面の蟇股はすべて同形式ですが、当初からのものではなく、正面より押込み、斜め釘打ちで羽目板に取り付けられた後補の蟇股であることが判明しました。また、痕跡から、拝殿には寛永元年の造立当初より蟇股が存在していましたが(ただし現在の蟇股とは異なる)、本殿は蟇股の無い建築であったことも明らかになりました。現在の蟇股は、社殿全体を同一体裁に整えるために、新たに作製し取り付けたものと考えられます。また、本殿と幣殿、幣殿と拝殿の取合せでおさまりが不自然な所も数カ所指摘されています。
以上を勘案すれば、現社殿にみる権現造は、寛永建立当初からのものではなく、修造時に幣殿を増設して形成されたもので、さらに、寛永建立当初の本殿と、現本殿は本来別の建築と考えられます。
明暦2年の修造時には、江戸城二の丸東照宮が移築され、その幣殿と拝殿が三芳野神社の外宮(天神外宮)となり、明治5年に氷川神社境内(宮下町)に移され、八坂神社社殿として現存しています。確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮の本殿であり、明暦2年に移築され大改修を受け、幣殿を増設し、本殿と拝殿を連結して現在見るような権現造社殿となったと推定されます。
蛭子社本殿と大黒社本殿は、拝殿の前方、参道に向かい合って鎮座します。拝殿から見て左が蛭子社、右が大黒社です。両社は同寸法、同形式で、拝殿前に一対となって配置され社格を高めています。朱塗の一間社流造、見世棚造で、屋根はこけら葺形の銅板葺とします。蛭子社本殿と大黒社本殿は、ほとんど装飾のない簡素な建築で、身舎組物は舟肘木で中備はなく、妻飾は虹梁豕扠首です。庇も柱上に舟肘木を置くだけで、いたって簡素なつくりになっています。明暦2年(1656)の「三芳野天神別当常海覚書」に「末社両宇」とあるのが相当すると思われ、元禄11年(1698)の「元禄11年川越市街屋敷社寺記」に末社貳ヶ所共 表四尺四寸 奥七尺九寸」とあって、規模が記されています。しかし、現本殿は正面四尺、側面は身舎と庇をあわせて六尺四寸五分であり、元禄の記録と一致しません。蛭子社に掲げられた額の背面に享保15年(1734)の年紀があるので、その頃再建されたものと思われます。
昭和30年1月1日(平成4年3月11日追加)指定
出典:川越市教育委員会
大楠に関するご説明
江戸期に建立された三芳野神社社殿は修復時の時期を迎え、去る平成4年に第1期修復工事が竣功、平成27年より第2期の修復工事を行うこととなりました。
今期の修復に当たり、社殿並びに創建当時よりの石組の排水溝が大楠の根によって持ち上げられ、旧態を留めることが困難になっていることを鑑み、関係各位と協議し、やむなく大楠を伐採することとなりました。
これも川越の先人方の志を継ぎ、社殿を保全するためでございますので、皆様方のご理解をお願い申し上げる次第でございます。
出典:三芳野神社社務所
ここはどこの細道じゃ
天神さまのほそみちじゃ
わらべ唄発祥の所
昭和54年11月3日
川越市文化財保護協会
川越城の七不思議
一、 霧吹(きりぶき)の井戸
二、 初雁(はつかり)の杉
三、 片葉の葦(あし)
四、 天神洗足(みたらし)の井水(せいすい)
五、 人身御供(ひとみごくう)
六、 遊女(よな)川の小石供養
七、 城中蹄(ひずめ)の音
川越城の七不思議
一、霧吹の井戸
城中に苔むした大きな井戸があった。
ふだんは蓋をしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったという。
そのため、川越城は別名霧隠城ともいわれる。
二、初雁の杉
川越城内にある三芳野神社の裏には大きな杉の老木あった。
いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。
そのため、川越城は別名初雁城ともいわれている。
三、片葉の葦
浮島稲荷神社の裏側一帯は、萱や葦が密生した湿地帯で、別名「七ッ釜」といわれていた。
ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。
川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母と逃げのび、ようやくこの七ッ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。
姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上がろうとしたところ、葦の葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。
この辺の葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。
四、天神洗足の井水
大田道真・道灌父子が川越城を築城するに当たって、堀の水源が見つからず困っていたところ、一人の老人が井水で足を洗っているのに出会った。
この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し、難攻不落の川越城を完成させることができたといわれている。
かの老人の気品にあふれた姿に気がついた道灌は、これぞまぎれもない三芳野天神の化身であったかと思い、以来これを天神洗足の井水と名づけて大事に神慮にこたえたという。
五、人身御供
川越城築城の際、太田道真、道灌父子は、三方(北、西、東)の水田が泥深く、築城に必要な土塁がなかなか完成せず苦心をしていたところ、ある夜龍神が道真の夢枕にたって、「明朝一番早く汝(汝)のもとに参った者を人身御供に差し出せばすみやかに成就する」と言った。
道真は、龍神にそのことを約束をしたが、明朝一番早く現れたのは、最愛の娘の世禰姫であった。
さすがの道真も龍神との約束を守れずにいると、姫は、ある夜、城の完成を祈りながら、七ッ釜の淵に身を投げてしまった。
そののち川越城はまもなく完成したという。
六、遊女川の小石供養
むかし、川越城主にたいそう狩の好きな殿様がいて、毎日のように鷹狩りに出かけていた。
ある日、供の若侍が小川のほとりを通りかかると、一人の美しい百姓の娘に出会ったので、名前をたずねるとおよねといい、やがてこの娘は縁あって若侍の嫁となったが、姑にいびられ実家に帰されてしまった。
およねは自分の運命を悲しみ、夫に出会った小川のほとりで夫が通りかかるのを待っていたが、会うことができず小川の淵へ身を投げてしまった。
やがてこの川を「よな川」と呼ぶようになったが、川の名は「およね」からきているとも、よなよな泣く声が聞こえるからともいわれている。
七、城中蹄の音
川越城主酒井重忠は、不思議なことに夜ごと矢叫や蹄の音に眠りをさまされていた。
ある日、易者に見てもらったところ、城内のどこかにある戦争の図がわざわいしているとの卦が出たので、さっそく土蔵を調べたところ堀川夜討の戦いの場面をえがいた一双の屏風絵がでてきた。
この屏風の半双を引き離して養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫や蹄の音が聞こえなくなったという。
昭和五十七年三月 出典:川越市
川越城跡
川越城は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。
概要
武蔵野台地の北東端に位置する平山城。1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存する(埼玉県有形文化財)。かつての城は、現在の初雁公園から川越市役所に至る広さであった。大半は失われ、二の丸跡は川越市立博物館・川越市立美術館、三の丸跡は埼玉県立川越高等学校となっているが、高校の南に、小高い丘の「富士見櫓」跡(埼玉県指定史跡)が残り、頂に御嶽神社と浅間神社が建っている。川越城には天守はなく、宇都宮城の清明台櫓と同様に、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守の代わりをしていた。富士見櫓は三層と考えられている。
中世から近世にかけて改築がなされ規模を大きく変えた。藩政時代には、酒井忠勝・松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など、幕府の要職についた歴代藩主が多く、幕閣の老中数7名は全国でも最多の藩の1つであり、江戸時代中期までは「老中の居城」であった(中期以降は親藩)。
別名
初雁城
城内の三芳野神社に「初雁の杉」があった。毎年同じ時期に北から初雁が飛来し杉の真上で三声鳴き三度回って南に飛び去った、という故事による。太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折も初雁が来て鳴いたことから道灌が「初雁城」と命名したとされる。3代目の初雁の杉が神社の社殿裏にある。霧隠城
城内に「霧吹きの井戸」という井戸があり、普段は蓋をしておくが危急の際は蓋を開くと霧が城を隠したという伝承による。井戸は移築され、現在は市立博物館の前庭にある。
ソース: 川越城 – https://ja.wikipedia.org
初雁公園駐車場夜間施錠管理のお知らせ
初雁公園を適正に管理するため、この駐車場。は平成20年11月1日から、左記のとおり夜間施錠管理になります。
開場時間を過ぎると、翌日の開場時間まで、退場できません。
記
1.4月1日から10月31日まで
開場時間 午前7時から午後10時まで
2.11月1日から3月31日まで
開場時間・午前7時から午後7時まで
出典:川越市
再建の辞
この川越城本丸御殿は明治維新の入間高麗郡立中学校郡庁舎等を経て昭和初年度に至り初雁武徳殿と名を改め武道錬磨の場となったこれを記念し当時の有志祖謀って剣聖高野佐三郎先生に揮毫を嘱し此の碑を建立したのである。然るに星霜を経ること数十載碑は空しく御殿庭内の一隅にあり顧みる人も希であった滴々その状を傷む者より碑復旧の示唆を得会員一同の出資を以て茲に再建の功が成ったのである。
昭和62年1月
出典:川越初雁ライオンズクラブ
川越城図
所在地 川越市郭町二丁目
この図は、慶応2年(1866)に松平直克候と松平康英候が引継をした当時の住居・惣門・堀の位置等を顕かにしたものである。
昭和58年3月
出典:川越市
初雁の由来
“とうりゃんせ”のわらべ唄発祥の地といわれている市内郭町に在る三芳野神社の裏手に見事な杉の老木があった。一名「初雁の杉」と呼ばれた。昔、北の空から飛んできた初雁が毎年決まって、この杉の木の上で三度グルッと回り、南の空に飛び去ったという。このことから川越城のことを「初雁城」と呼ぶようになったという。
出典:川越初雁ライオンズクラブ20周年記念事業
埼玉県立川越高等学校
埼玉県立川越高等学校は、埼玉県川越市郭町二丁目にある男子校の県立高等学校。通称は、川高。埼玉県立川越工業高等学校の略称と区別するため、一般の人は『かわたか』と表現するが、在校生や卒業生は『かわこう』と呼ぶ。
ソース: 埼玉県立川越高等学校 – https://ja.wikipedia.org
時の鐘
時の鐘は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼(時計台)。
建物は、川越市指定有形文化財に指定されている。
ソース: 時の鐘 (川越市) – https://ja.wikipedia.org
菓子屋横丁
菓子屋横丁は、江戸時代の末期から明治時代の初めごろに、江戸っ子好みの気取らない菓子を製造したのが始まりといわれています。関東大地震で大きな被害を受けた東京に代わって全国への製造・供給を賄い、昭和初期には、約70軒が軒を連ねていました。
平成13年には環境省の「かおり風景百選」に選定されています。
川越十カ町地区都市景観形成地域
蔵造りの町並みが残る川越市伝統的建造物群保存地区を含む十カ町地区(約78.0ha)は、景観に基づく川越市景観計画の都市景観形成地域に指定されています。
地域の歴史に誇りを持ち、町並み景観を守り育て、住み続けられる町を作るためにルールを定めています。このルールを守るとともに、建築行為等に際して市に届をする必要があります。
🔶主なルール
1.建築物の高さは、周囲の町並みに配慮する。
(一部で、「時の鐘」高さ16mを超えてはならない地域が定められています。)
2.主要な道路に面する建築デザインは伝統的な建物と調和するようにする。
3.大規模な広告物は禁止する。
4.地域住民等による自主的なまちづくりのルールを尊重する。
出典:十カ町会
山門(川越城移築蓮池門)
川越の観光地から少し離れた、静かな住宅地の合間に「榮林寺」があります。
江戸時代の初期に創建された歴史あるお寺で、川越城内の門を移築した山門に、立派な本堂。境内にはお掃除する小僧も…。また、春になると本堂前の見事なしだれ桜が参拝者を出迎えてくれます。
榮林寺は、川越城の城主「酒井備後守忠利」が、祖母の玉室榮琳大姉の為に建立したお寺。創建時は、現在の場所ではなく裏宿(現 元町1丁目)にあったと言います。
出典:カワゴエール
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