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小江戸川越ウオークⅢ
・蔵造の町並み
・川越城本丸御殿
・仙波河岸史跡公園
『小江戸蔵里』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。
市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成22年10月に誕生しました。
施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。
これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。
なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。
出典:小江戸蔵里
小江戸蔵里
『小江戸蔵里(こえどくらり)』は、この場所で明治8年(1875年)に創業した旧鏡山酒造の建築物を、当面の面影を残しつつ改修した施設です。
市民と観光客との交流、地域の活性化を図るとともに、川越市の物産等を楽しんでいただく新しい名所として平成22年10月に誕生しました。
施設は、明治・大正・昭和の時代に建てられた酒造を改装した、おみやげ処(明治蔵)、まかない処(大正蔵)、くら市場(昭和蔵)の3つの蔵からなっています。
これらの蔵は、国の登録有形文化財に指定されています。
なお『小江戸蔵里』という名称は、川越市の別名『小江戸』蔵造りの町並みを表す「蔵」、人々が気軽に立ち寄れてくつろげる心のふるさと「里」、という意味を込めて公募の中から選ばれました。
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蔵造りの町並み
「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」
そう言わせた”蔵造りの町並み”は、江戸の町並みが今なお残るエリアです。黒漆喰の壁に、重厚で豪華な蔵造り商家が軒をつらね、商人の活気と道行く観光客で賑わいをみせています。
出典:カワゴエール
時の鐘
時の鐘は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼。建物は、川越市指定有形文化財に指定されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
時の鐘・薬師神社
時の鐘
時の鐘は、江戸時代の初期、酒井忠勝が川越城主(1627~1634)のころに建設されたと伝えられています。
その後何度か焼失し、現在の時の鐘は、明治26年の川越大火の翌年に再建されたもので、高さは約16mあります。
平成8年には、環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています。
薬師神社の由来
薬師神社は、以前瑞光山医王院常蓮寺という寺でしたが、明治維新の折に薬師神社となりました。
御本尊は薬師如来の立像で行基菩薩の作といわれています。五穀豊穣、家運隆昌、病気平癒、特に眼病にご利益があるといわれています。
右奥の稲荷神社は、出世、開運、合格に著しいご利益があるといわれています。川越城と中ノ門堀
川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。
当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。
天文6年(1537)、小田原を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石なものとします。
しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。
江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。
寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁を整えるにいたりました。
中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。
現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行15尺2寸(4.605m)、桁行30尺3寸1分(9.183m)ほどの規模でした。
棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。
※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ
事業の補助を受けて実施しました。
中ノ門堀のしくみ
中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。
西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。
進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。
また、発掘調査ではす城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかりました。
中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60度、西側は30度でした。
つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。
明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。
川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成20・21年度に整備工事を行いました。
川越城本丸御殿
川越城は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。
ソース: 川越城 – https://ja.wikipedia.org
「とおりゃんせ」発祥の地
わらべ唄発祥の碑
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
川越城の七不思議
一、 霧吹(きりぶき)の井戸
二、 初雁(はつかり)の杉
三、 片葉の葦(あし)
四、 天神洗足(みたらし)の井水(せいすい)
五、 人身御供(ひとみごくう)
六、 遊女(よな)川の小石供養
七、 城中蹄(ひずめ)の音
川越城(かわごえじょう)の
七不思議(ななふしぎ)
一、霧吹(きりぶき)の井戸
城中に苔(こけ)むした大きな井戸があった。
ふだんは蓋をしておくが、万一敵が攻めて来て、一大事という場合には、この蓋を取ると、中からもうもうと霧が立ち込めて、城は敵から見えなくなったという。
そのため、川越城は別名霧隠城(きりがくれじょう)ともいわれる。
二、初雁(はつかり)の杉
川越城内にある三芳野(みよしの)神社の裏には大きな杉の老木あった。
いつの頃からか毎年雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら、杉の回りを三度回って、南を指して飛び去ったということである。
そのため、川越城は別名初雁城ともいわれている。
三、片葉の葦(あし)
浮島稲荷(いなり)神社の裏側一帯は、萱(かや)や葦(あし)が密生した湿地帯で、別名「七ッ釜(かま)」といわれていた。
ここに生える葦は不思議なことに片葉であって、次のような話が伝わっている。
川越城が敵に攻められ落城寸前に、城中から姫が乳母(うば)と逃げのび、ようやくこの七ッ釜のところまでやって来たが、足を踏みはずしてしまった。
姫は、川辺の葦にとりすがり岸にはい上がろうとしたところ、葦の葉がちぎれてしまい、姫は葦の葉をつかんだまま水底へ沈んでしまった。
この辺の葦は、この姫の恨みによってどれも片葉であるといわれている。
四、天神洗足(みたらし)の井水(せいすい)
大田道真(どうしん)・道灌(どうかん)父子が川越城を築城するに当たって、堀の水源が見つからず困っていたところ、一人の老人が井水で足を洗っているのに出会った。
この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し、難攻不落の川越城を完成させることができたといわれている。
かの老人の気品にあふれた姿に気がついた道灌は、これぞまぎれもない三芳野天神の化身(けしん)であったかと思い、以来これを天神洗足の井水と名づけて大事に神慮にこたえたという。
五、人身御供(ひとみごくう)
川越城築城の際、太田道真、道灌父子は、三方(北、西、東)の水田が泥深く、築城に必要な土塁(どるい)がなかなか完成せず苦心をしていたところ、ある夜龍神が道真の夢枕にたって、「明朝一番早く汝(汝)のもとに参った者を人身御供(ひとみごくう)に差し出せばすみやかに成就(じょうじゅ)する」と言った。
道真は、龍神にそのことを約束をしたが、明朝一番早く現れたのは、最愛の娘の世禰(よね)姫であった。
さすがの道真も龍神との約束を守れずにいると、姫は、ある夜、城の完成を祈りながら、七ッ釜の淵に身を投げてしまった。
そののち川越城はまもなく完成したという。
六、遊女(よな)川の小石供養
むかし、川越城主にたいそう狩の好きな殿様がいて、毎日のように鷹(たか)狩りに出かけていた。
ある日、供の若侍が小川のほとりを通りかかると、一人の美しい百姓の娘に出会ったので、名前をたずねるとおよねといい、やがてこの娘は縁あって若侍の嫁となったが、姑(しゅうと)にいびられ実家に帰されてしまった。
およねは自分の運命を悲しみ、夫に出会った小川のほとりで夫が通りかかるのを待っていたが、会うことができず小川の淵へ身を投げてしまった。
やがてこの川を「よな川」と呼ぶようになったが、川の名は「およね」からきているとも、よなよな泣く声が聞こえるからともいわれている。
七、城中蹄(ひずめ)の音
川越城主酒井重忠(さかいしげただ)は、不思議なことに夜ごと矢叫(やたけび)や蹄(ひづめ)の音に眠りをさまされていた。
ある日、易者に見てもらったところ、城内のどこかにある戦争の図がわざわいしているとの卦(け)が出たので、さっそく土蔵を調べたところ堀川夜討の戦いの場面をえがいた一双の屏風(びょうぶ)絵がでてきた。
この屏風の半双を引き離して養寿院に寄進したところ、その夜から矢叫や蹄の音が聞こえなくなったという。
昭和五十七年三月 出典:川越市大楠に関するご説明
江戸期に建立された三芳野神社社殿は修復の時期を迎え、去る平成4年に第一期修復工事が竣功、平成27年より第二期の修復工事を行うこととなりました。
今期の修復に当たり、社殿並びに創建当時よりの石組の排水溝が大楠の根によって持ち上げられ、旧態を留めることが困難になっていることを鑑み、関係各位と協議し、やむなく大楠を伐採することとなりました。
これも川越の先人方の志を継ぎ、社殿を保全するためでございますので、皆様方のご理解をお願い申し上げる次第でございます。
出典:三芳野神社社務所
喜 多 院
喜多院は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。
建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。
広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参拝客が訪れる。
ソース: 喜多院 – https://ja.wikipedia.org
仙波東照宮
仙波東照宮は、埼玉県川越市小仙波町にある神社(東照宮)。日光・久能山と並ぶ日本三大東照宮の1つ。旧社格は無格社。
祭神
徳川家康公(東照大権現)歴史
元和2年(1616年)に薨去した祭神の法要は、久能山から日光山に改葬される際の元和3年(1617年)に、江戸幕府の「黒衣の宰相」と称された天台宗の僧侶・天海によって喜多院で行われ、後水尾天皇から東照大権現の勅額が下賜され、同年にその地に天海によって創建された。1638年(寛永15年)の川越大火で焼失するが、徳川家光によって川越藩主で老中の堀田正盛が造営奉行に命ぜられ、幕府によって再建された。江戸時代を通じ社殿や神器等全て江戸幕府直営であった。
本殿には木像の家康公像が祀られている。石鳥居は寛永15年(1638年)に堀田正盛が奉納したもの。本殿のまわりには歴代の川越藩主が献燈した石灯籠が並ぶ。拝殿にある三十六歌仙絵額は岩佐又兵衛筆で知られ国の重要文化財。岩槻藩主の阿部重次が奉納した「鷹絵額十二面」は狩野探幽作で知られる。
童謡『あんたがたどこさ』発祥の地と言われる。
ソース: 仙波東照宮 – https://ja.wikipedia.org
重要文化財・建造物
仙 波 東 照 宮
徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した元和3年(1617)3月、喜多院に四日間とう留して供養したので、天海僧正が寛永10年(1633)1月この地に創建した。
その後寛永15年(1638)正月の河越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年6月起工、同17年完成した。当初から独立した社格をもたず。
喜多院の一隅に造営されたもので、日光・久能山の東照宮とともに三大東照宮といわれている。
社の規模は表門(随身門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。
本殿の前には歴代城主奉献の石灯籠がある。
なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。
出典:埼玉県教育委員会
出典:川越市教育委員会
仙波河岸のむかし
むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。
これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。
仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。
しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。
下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。
仙波の滝の水音
むかしこの場所には「仙波の滝」と呼ばれる滝がありました。これは愛宕神社のがけ下からの豊かな湧水による滝で、昭和の中ごろまで流れていたそうです。
「仙波河岸」は明治の初めごろにこの仙波の滝を利用して開設されました。
下の写真は仙波の滝で憩う人びとの様子を写した明治34年ごろの写真です。
仙波愛宕神社
仙波愛宕神社 拝殿
川越市富士見町にある仙波愛宕神社は、防火の神「火産霊神」を祀った神社。
仙波愛宕神社の拝殿・本殿は、盛り上がった小山の上にありますが、この小山はなんと古墳。川越市指定の史跡「愛宕神社古墳」です。
また境内には松尾芭蕉の句碑があり、こう刻まれています。
「名月に 麓の霧や 田の曇)」
ここ一帯は仙波台地と呼ばれ、芭蕉がこの句を読んだ伊賀国上野赤坂(三重県)と同じく、台地の先っぼで眺望がよく月見がしやすいことからこの句碑が置かれています。
ちなみに、仙波愛宕神社境内では、木々が多いせいで素晴らしい眺望は望めません…。
出典:カワゴエール
浅間神社の歴史と信仰
当神社は康平年間(1058~1065)源頼義が奥州征伐の途次に分霊したことに始まり、長禄元年(1457)に太田道灌が再営し、永禄9年(1566)に北条氏の臣・中山角四良左衛門が再興したという。
文政11年(1828)、川越南町の山田屋久兵衛が近郷富士講中並びに有志老若男女の助力を受け、拝殿一棟の再建と一丈余の岩室の上に更に一丈有余を新築したと棟札に記されている。
岩室前の石猿に天保4年(1833)の銘があることや、石碑類の多くが天保年間に造営されていることから、文政から天保年間に現在の姿が整えられたと考えられる。(この岩室は、大正12年の関東大震災により崩壊し間もなく再建したとの柵石がある)
拝殿の天井は、中央部が折上格天井(おりあげごうてんじょう)になっており、江野楳雪(1812~1873)による百人一首歌仙像の絵がくみこまれている。
神社の祭神には木花咲耶姫命が祀られている。江戸中期、関東一円に浅間信仰が起こり、富士浅間神社を分霊した当社には、近郷の多くの村々が講を作り、寄進したことが石碑や柵石に刻まれている。
毎年7月13日の初山には、子育ての神が転じて子宝に恵まれる神としても信じられ、新婚夫婦・幼児を抱いたお母さん方など毎年1万人にも及ぶ参拝客が訪れている。
参拝客は、暑さに向かう夏の健康を願いあんころ餅を、夏の難病と厄病を追払い毎日を健やかに過ごすようにと団扇を買い求め、お仲人や近親者に配る習わしになっている。
平成22年1月吉日
浅間神社総代一同
浅間神社古墳(市指定・史跡)
円墳で、その規模は高さ約5m、周囲(※直径?)42mである。現在この古墳の頂上には、浅間神社が祀られており、このためかなり削りとられて墳頂部は平坦になっている。
古墳のすその部分に低いところが見られる事から周溝が巡っていたと考えられる。
愛宕神社古墳と共に仙波古墳群の中では規模も大きく、群集墳が発生した初期の頃に築造されたものであり、6世紀の中頃のものであろう。
仙波地域一帯が農業を専業とする人々によって村落が形づくられ、その指導者の墓として作られたものであり、川越市内では、的場古墳群、南大塚古墳群、下小坂古墳群に次いで残っている仙波古墳群のひとつである。
昭和63年3月
出典:川越市教育委員会
県指定・史跡
占肩の鹿見塚
(うらかたのししみづか)
万葉集巻十四の
武蔵野に占(うら)へ肩灼きまさでにも
告(の)らぬ君が名うらに出にけり
という歌は古代日本人が多く住でいた鹿を持し、その肩を焼いて吉凶を占った習慣にことよせた情緒深い歌であるが、この誕生地が長いこと謎だった。
この仙波の地には、父塚・母塚もふくめて古墳群が形成されていた。
しかし、この鹿見塚は大正3年に東上線が開通する際、破壊され消滅してしまったが、土地の小名にも「シシミ塚」「シロシ塚」などと記録されている。
シシとは鹿のことである。
建碑の場所は便宜上浅間神社の前を選んだのである。
平成4年3月
出典:川越市教育委員会
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