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第4回日高かわせみの里
ツーデーウオーク 25日(土曜日)
巾着田メイン会場
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巾着田曼珠沙華公園
巾着田は、埼玉県日高市の西部、高麗本郷を流れる高麗川に囲まれた所にある巾着のような形をした平地である。
概要
地元では川原田と呼ばれている。8世紀にこの付近に移り住んだ高句麗からの渡来人が、大きく湾曲した高麗川を利用してこの地を開墾して田を作り、稲作を伝えたと言われている。
昔は文字通り水田が広がり、その面積は約17ヘクタール(17万平方メートル)に及んでいた。昭和40年代に当時の日高町が巾着田を取得し、昭和50年代~60年代ごろに草藪の草刈りをしたところ、大規模なヒガンバナ (彼岸花、曼珠沙華)の群生が見られるようになり、報道が始まったことで、有名スポットとなった。河川の蛇行や氾濫により上流部から土砂とともに球根が流れ着いたものと考えられている。1996年には日本一の木製トラス橋「あいあい橋」が完成した。グラウンドや駐車場など観光地として設備されるようになった。
河原では季節を問わずキャンプを楽しむ人が多く見られる。特に夏場は、弧を描く川の内側は流れが緩やかであるためか、小さな子ども連れの家族で賑わっている。
毎年9月〜10月にかけて高麗川沿いの河川敷にある5.5ヘクタールの群生地にヒガンバナ(彼岸花、曼珠沙華)が見頃になる(「500万本の曼珠沙華」を標榜する)。日本一のヒガンバナ群生地であり、祭り等も開催されたくさんの観光客で賑わう。近年[いつ?]ことに西武鉄道の宣伝などによりさらに観光客が増える傾向にある。またヒガンバナ以外にも春にはサクラや菜の花が見頃を迎える。夏になるとアジサイやハスが、秋には、コスモスも見ることができる。また、カワセミやムササビなど、さまざまな種類の野鳥や小動物を観察することもできる。
このため巾着田を含む高麗郷一帯は、埼玉県や東京都にある西武線沿線などの学校から遠足の行き先として選ばれることも多い。日高市はこれを観光振興に生かすため、2017年4月8日に「遠足の聖地」を宣言した。巾着田の曼珠沙華は2000年(平成12年)5月5日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。
「巾着田曼珠沙華公園」として、2005年からヒガンバナの開花期間中は整備費用に充てるため入場料を徴収している(巾着田管理協議会)。
行幸啓
2017年(平成29年)9月20日に、天皇、皇后が、在位中8度目の私的旅行として訪れた。直前には高麗神社を参拝し、高麗家住宅を視察している。翌日は深谷市の渋沢栄一記念館などを訪問している。
ソース: 巾着田 – https://ja.wikipedia.org
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日和田山・金刀比羅神社からの眺望
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五常の滝
この滝の名称である五常とは、仁義礼智信という五つの徳目を表しています。
紀元前四百年頃に、中国の儒学者である孔子によって、「仁」こそが、人が身につけるべき最高の徳であると唱えたのが始まりと言われています。
この孔子の教えを受け継いだ孟子が、「仁」に「義」「礼」「智」を加えて、その思想をさらに発展させ、後に前漢の時代の儒学者である董仲舒が「信」を加えて、五常の教えとして完成させました。
この五常の教えは、中国から朝鮮半島、そして日本へと伝わり、人が身につけるべき大事な徳目として、重んじられるようになりました。
この五常の滝は、落差約十二メートルあり、南北朝時代には、高麗一族の武者がこの滝で身を清め、必勝を祈願して戦場に向かったという伝説が残っています。
2017年(平成29年)7月1日
出典:一般財団法人五常の滝
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ようこそ高麗郷へ
水 天 の 碑
所在地 日高市大字台
水天の碑は、天保年代(1830~1844年)に繰り返された干魃かんばつ、洪水などの天災や水難事故を鎮しずめるために、台村だいむらの人々が建立したものである。
この碑は、高麗川を利用した西川材運送のための筏いかだ流しとも深い関係がある。
筏流しは江戸時代初期から始まったと伝えられている。
天明年代(1781~1789)には、更に災いが度重なり、記録によると、この地方を飢饉ききんが襲うなど、災難が続いて起こったので、この水天の碑の建立の際には、五日五夜の大念仏の行事が行事が行われたと伝えられている。
このようにして建てられた水天の碑も、明治になって馬車の発達と共に筏流しが衰退したこともあって、今では忘れられた存在になっている。
昭和57年3月
出典:日高市
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