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★500選の道⑭
史跡と花の名所を巡る梅の里のみち
・11㎞ ★埼玉ウオーキング協会
越辺川散策案内図
埼玉県入間郡越生町黒山地区の黒山三滝付近に源を発する。源頭は関八州見晴台である。流域には黒山鉱泉がある。ここより埼玉県道61号越生長沢線に沿い越生梅林を抜け、比企郡鳩山町で鳩川を合わせる。東へ流れ、坂戸市で高麗川を、比企郡川島町で都幾川をそれぞれ合わせ、埼玉県道12号釘無橋を越えた川島町角泉付近で入間川に合流する。元々は国道254号落合橋の辺りで入間川に合流していたが後年の治水工事で今の流れに変わった。
ソース: 越辺川 – https://ja.wikipedia.org
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山吹の里歴史公園
鷹狩りの途中、にわか雨に遭った若き日の太田道灌は、蓑を借りに貧しい民家を訪ねました。すると、出てきた少女は何も言わずに一枝の山吹を差し出しました。少女の謎掛けが解けなかった道灌は、「蓑がない」悲しさを「七重八重花は咲けども山吹の 実の一つだに無きぞかなしき」という古歌に託した少女の想いをのちに知りました。自分を恥じた道灌は歌道を志し、文武両道の名将になったという逸話の故地です。
出典:越生町
弘法山と子育て観世音
越生町成瀬
弘法山は、山頂に諏訪神社、中腹に観音堂、山麓に見正寺があり、全山に信仰対象が置かれている。
古くは「高房山」と記されており、当地の小字名も「高房」である。観音堂の本尊の観音菩薩が弘法大師の作と伝えられていることなどから、「弘法山」と表記されるようになったものと考えられる。
山頂からの優れた眺望については、江戸幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』に「高房山圖」の絵入りで掲載されている。
「高さ五兆余りにて、四辺は松杉生ひ茂りて中腹に妙見寺あり。夫より頂までは殊に険阻の山なり。頂には浅間の祠を建て、祠辺よりの展望最も打ち開けたり。先ず東の方は筑波の山を始めとして、比企、足立、江戸を打越して、遠く房総の山々を見渡し、南は八王子の辺までのあたりに見え、西は秩父ヶ岳及び比企郡笠間山、乳首山など連なり、北は三国峠より信州、越州の高山見えたり」と、海抜200㍍足らずの山について異例の紙幅を割いている。
現在、浅間社は山麓から遷座した諏訪神社に合祀されている。妙見寺は廃寺となったが、のこされた観音堂は安産子育ての観音様として参拝者が絶えない。乳房をかたどった縫いぐるみを奉納する習俗は、民俗学的にも注目されている。
平成25年3月
出典:越生町教育委員会
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越生梅林
梅林内の様子
南北朝時代に武蔵国小杉村に大宰府より天満宮を分祀する(梅園神社)際に梅を植えたのが起源という。
一帯では2万本程の梅が栽培されており、越生梅林はその中にある「梅まつり」が行われる約2haの広さの土地をいう。
越生野梅などの保存古木など約1000本が植えられており、明治期には、佐佐木信綱、田山花袋、野口雨情らが訪れ、その風情を詩歌に残している。
『新編武蔵風土記稿』の津久根村の項には「土地梅に宜しく梅の樹多く植ゆ、実を取って梅干として江戸に送る。比辺皆同じけれど殊に当村に多しといふ」とあり、昔から梅の生産が盛んであったことを伺わせ、現在では梅林を中心に2万5千本の梅が栽培されている。
2000年(平成12年)5月5日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。
梅まつり
毎年2月中旬から3月下旬まで梅まつりが開かれ、多くの観光客が訪れる。梅林のなかにミニSLの全長253m一周線路が敷設されており、期間内の設定日にはミニSL(かつて八高線で走っていた国鉄9600形蒸気機関車の10分の1モデル)が運行される。また、舞台では郷土芸能も披露される。
ソース: 越生梅林 – https://ja.wikipedia.org
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五大尊花木公園~鈴木金兵衛発願
四国八十八ヶ所・西国坂東秩父百観音写し霊場~
五大尊と鈴木金兵衛
五大尊は五大明王の尊称です。
本堂には、不動明王を中心に、両脇に軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王、降三世明王を配した木造五大明王像が祀られています。
平安時代末期の造立で、県内唯一の五体揃った中世以前の作例として、埼玉県の文化財に指定されています。
関東屈指のつつじ園は、享保年間(1716~36)に
寺僧が植えたのが始めと伝えられ、一万株以上のつつじが約三ヘクタールの園内を鮮やかに彩ります。
つつじも盛りの5月3日に行われる祭礼は、元来は境内の吒枳尼天社(イナフクミ社)の例祭で、豊蚕の神として大勢の参拝者を集めてきました。
鈴木金兵衛は、天明元年(1781)にに越生郷黒岩村(現越生町大字黒岩)で生まれました。
江戸に出て、日本橋で古帳類買入所(故紙回収業)を営む傍ら古帳庵と号して俳句をたしなみ、諸国を行脚し、各地に句碑を遺しました。
五大尊境内の四基を含めて越生町内に七基、全国で計十六基の句碑が確認されています。
なかでも、千葉県銚子市の飯沼観音圓福寺に立つ「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」の句碑は広く知られています。
翁は、崇敬する五大尊に、四国八十八ヶ所、西国・坂東・秩父百観音の写し霊場を設けることを発願し、弘化2年(1845)に札所巡拝碑(札所写)の造立に着手しました。江戸神田の石工が彫った碑は、川越までは新河岸川を回漕、河岸場から五大尊へは陸送されました。
石材は祖州産根府川石で、札所番、本尊、所在地、寺院名を刻み、中央に筆太の梵字「ア」と「アーンク」を配し、下に弘法大師像が線彫りされています。
四国を除く、西国、坂東、秩父の碑には御詠歌が添えられています。
碑の裏面には、賛同して建碑費用を拠出した。
江戸の商人をはじめとする、四百人以上の協力者名が記されています。
札所巡拝碑は、江戸時代の文化史、商業史の貴重な資料であり、町内に所存する古帳庵句碑七基とともに越生町の文化財指定されています。
惜しいことに、何らかの事情で札所巡拝碑建立は途絶して完成には至らず。
百四基が五大尊境内に順不同に散在している状態でした。
平成27年度、越生町は、不足する碑八十四基を新たに造り、既存の碑と合わせた計百八十八基札所巡拝碑を札所番号順に配置しました。
鈴木金兵衛翁夢見た五大尊の写し霊場は、二百年近い時を隔てて、ついに実現しました。
平成19年㋂
出典:越生町教育委員会
児玉党越生氏の系図
黒岩氏本願の地
「武蔵七党系図」によると、黒岩氏は鎌倉時代に、児玉党一派越生氏の初祖越生有行の孫、有光が興した一族で、兄は鳴瀬(成瀬)を、弟は岡崎を名乗った。
小杉の梅園神社に遺されている、永正二年(一五一五)の棟札に「黒岩民部少輔顕季」の名が見える。
県道沿いに家が立ち並ぶ現在の黒岩市街地は、江戸時代以降に、越辺川の流路が東に動いたのちに形成され、それまでの集落は一段高い河岸段丘上にあったと推測されている。
城や館の存在を示唆する明確な遺構は遺っていないが、五大尊の本尊木造五大明王像(県指定文化財)は平安様式の作である。また、境内からは、鎌倉時代から室町時代にかけて建立された宝篋印塔や板碑も見つかっている。
これらから、中世から五大尊一帯が、この地域の中心であったことが確実視できる。
平成28年㋂
出典:越生町教育委員会
越生神社祭典 黒岩町山車
毎年7月の中・下旬に催される「越生まつり」は、江戸時代から続く、牛頭天王を祀る八坂神社の祇園祭(天王様)が発展したものである。
夕刻から曳行される六台の山車の上で繰り広げられる囃子と踊りの競演が、華やかな江戸天下祭の名残を今に伝えている。
黒岩町の山車は、旧黒岩村村社の八坂神社が合祀されて越生神社が創立された明治42年(1909)に、熊谷の鎌倉町から125円で購入したものである。
錺金具や幕に、鎌倉町の「鎌」と「宮本」があしらわれている。
天井絵の紀年銘から明治27年の製作と推測される。
囃子台は唐破風付きの屋根を持ち、越生では唯一の二重鉾(三重高欄)、三輪の山車である。
本来は、より高く迫り上がる構造の上鉾には、牛頭天王の化身とされる素戔鳴尊の巨大な人形が乗る。法恩寺
法恩寺は、埼玉県入間郡越生町にある真言宗智山派の寺院である。山号は松渓山。
歴史
行基の開山により創建されたと伝えられ、鎌倉時代越生氏の保護のもとに再興され、天台宗の寺院となった。室町時代中期に真言宗に改められ、江戸時代には真言宗の学問所であった。
ソース: 法恩寺 (埼玉県越生町) – https://ja.wikipedia.org
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