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2月27日 第5回早春の狭山ウオーク2018
・8km・11km・17km
狭山あるこう会の例会
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狭山稲荷山公園
概要・歴史
稲荷山公園駅前に位置し、戦後米軍が使用していたジョンソン空軍基地(現航空自衛隊入間基地)の一部が返還されたもの。1945年(昭和20年)、米軍がこの地を接収した際、基地内の公園として整備したもので、米軍管理下の時代には「ハイドパーク」(Hyde Park)という英語名があり、返還後も周辺住民には長く同名で呼ばれていた。敷地内は近接する周辺地域と同じく主に基地で働く軍人や関係者の住宅用地(housingarea)として利用されていたため、1990年代まではアメリカ風建築の廃屋が点在していたが、今は取り壊されている。建築物による異国情緒は無くなったが、造成がアメリカ人の主導によって行われたため、今でもアメリカの公園のような雰囲気を持つ。2003年に市営公園から、県営公園に管轄が変更された。管轄の変更にともない開園時間の限定がなくなり、現在は原則として夜間の立ち入りも禁止されていない。園内には、喫茶店、園外にもレストランが1軒程度ある。春には桜(主にソメイヨシノ)の名所になる。アカマツ・コナラなど木々も多い。また災害時において避難地となる防災公園としての機能も持っている。
ソース: 狭山稲荷山公園 – https://ja.wikipedia.org
彩の森入間公園
彩の森入間公園は、埼玉県入間市内にある埼玉県営の都市公園(総合公園)。
沿革
1973年に米軍のジョンソン基地が返還され(現在も一部には航空自衛隊入間基地がある)、防災拠点として1998年に公園が開園した。
主な施設
芝生広場
池
駐車場
障害者用トイレ交通
アクセス
電車:西武池袋線稲荷山公園駅南口から徒歩10分西武池袋線入間市駅南口から徒歩15分車:首都圏中央連絡自動車道狭山日高ICから4km首都圏中央連絡自動車道入間ICから5km
ソース: 彩の森入間公園 – https://ja.wikipedia.org
七 曲 井 埼玉指定文化財 史 跡
所 在 地 狭山市北入曽1366
指定年月日 昭和24年2月22日
この七曲井は、周囲70m余り、直径26m、深さ11.5mという大規模な漏斗状井戸です。
竪堀井戸を掘る技術が確立される近世までは、この井戸のように漏斗状に地下水まで掘り下げたと考えられます。井戸に降りる道は上部で階段状をなし、中央部では曲がり道、そして底近くでは回り道となっており、この道の形状が名前の由来になっているといわれています。また、井筒部は人頭大の石で周囲を組んだ中に松材で井桁を組んでありました。井戸所在地の小字名「堀兼井」、読みは「ほりかねい」、或いは「ほりがたい」から、古来この地方に住む人々にとって飲料水を得ることが困難であったことがわかります。
井戸が掘られた時代については、建仁2年(1202)との説がありますが、確かではありません。ただ、府中から入間川に至る奈良・平安時代の古道沿いにあるため、平安中期に開拓と交通の便を図るため武蔵国府(現在の役所)の手により掘られたと考えられています。
七曲井は、何度か改修が行われ、地球の人々の貴重な水源として活用されてきましたが、宝暦9年(1759)の改修を最後に歴史から姿を消します。その後、土砂やゴミの堆積によって埋もれてしまいました。昭和45年に埼玉県教育委員会と狭山市教育委員会によって発掘、復元され、地元の人々により大切に保存されてきましたが、最近になって壁の一部に崩落の危険性があることが明らかになりました。その為、平成17・18年度に崩落防止工事を実施しました。 この工事により、現在見える姿は往時と異なるものとなってしまいましたが、井戸本体は半永久的に保存可能となったのです。
平成28年3月
埼玉県教育委員会
狭山市教育委員会
堀 兼 神 社
堀兼神社は、狭山市堀兼にある神社です。堀兼神社の創建年代等は不詳ながら、丘陵地にある貴重な井戸(堀兼の井)とかかわるものと考えられ、平安末期には既に「堀兼の井」が広くしられていたことから、平安時代以前に祭られたのではないかと思われます。慶安3年(1650)には、川越城主松平伊豆守信綱が長谷川源右衛門に命じて社殿を建立、承応年間(1652-1655)より始まった当地開発により、延宝3年(1675)に堀金村が成立、明治5年に村社に列格、明治40年から明治42年にかけて村内の神社十二社を合祀したといいます。
出典:猫の足あと
堀兼神社 一ノ鳥居改築記念碑
当神社には、古来より鳥居がありました。
慶安3年(1650年)川越城主、松平伊豆守信綱の命により、長谷川源右衛門が、社殿建立の折に再建されたと想われます。
寛政5年(1794年)10月18日、名主・組頭等により、改築されました。
後、昭和28年(1953年)1月18日、当時の、総代・有志・地元大工により、改築奉納をされ神域の門として、参拝者を見守ってまいりましたが、経済成長に伴う環境の変化(道路の嵩上げ・酸性雨等)により、短年にて傷みがひどく、この度、氏子会員を始めとして、多くの皆様の、奉賛を賜り、境内の欅を使用して改築をいたしました。
尚、 額は堀兼神社の本宮である、北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市)上文司 厚 宮司の謹書を基に製作いたしました。
平成21年11月23日
出典:堀兼神社社務所
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