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第6回さいたマーチ
〜見沼ツーデーウオーク〜
24日(土)/見沼田んぼ南ルート
(見沼代用水と芝川満喫ルート)
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コクーンシティ (COCOON CITY)
コクーンシティ (COCOON CITY) は、埼玉県さいたま市大宮区吉敷町四丁目にあるショッピングモールである。コクーン1、コクーン2、コクーン3およびパークサイドビルの4棟で構成され、さいたま新都心13・14・16街区に位置する。片倉工業大宮製作所跡地における再開発計画で、同社が施設の管理等を行っている。
ソース: コクーンシティ – https://ja.wikipedia.org
見沼氷川公園
氷川女体神社の眼下に作られた公園です。
園内にあるハーブ園には、ラベンダーやミントなどのハーブが植えられています。
良い香りがほのかに漂う憩いの空間は、人気のスポットになっています。
また、この付近は唱歌「案山子」の発祥地といわれているため、公園の入り口には記念のモニュメントも設置されています。
出典:公益財団法人さいたま市公園緑地協会
見沼たんぼ周辺案内
見沼の笛 見沼の伝説
昔、このあたりの見沼が、まだ満々と水をたたえていたころのこと。
夕暮れになると、沼のほとりのどこからか、美しい笛の音が流れてきます。
そしてその笛の音に誘われるかのように、村の若い男たちが一人、また一人と沼のほとりから消えてゆきました。
村の若者は、だんだん少なくなって、お百姓もできなくなるほどになりました。
困った村人たちは、これはきっと見沼の主が、なにかを怒ってなされるにちがいない、見沼の主の心を鎮め、いなくなった若者たちを慰めるため供養塔を建てることにしました。
そして大きな石の塔を建て、ねんごろに供養しました。それ以後は、不思議な笛の音は、ぴたりとやんで、行方不明になる若者もなくなり、再び村は平和になったということです。
昭和59年㋂
出典:さいたま市
国指定史跡 見沼通船堀 西縁
1.指定年月日 昭和57年7月3日
(文部省公示第115号)
2.指定基準
特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準
〔史跡6〕(その他産業交通土木に関わる遺跡)による。
3.説明
見沼通船堀は、江戸時代中期に築造された閘門式運河の遺構です。
享保13年(1728)徳川幕府は井沢弥惣兵衛為永に命じ灌摡用水路である見沼代用水路を開削しました。その3年後の享保16年、物資輸送を目的に、為永によって東縁用水、西縁用水とその中央を流れる芝川を結んでつくられたのが見沼通船堀です。
見沼通船堀は、東西二つに分かれており、東縁側が約390メートル、西縁側が約650メートルあります。
東西の各用水と芝川の水位差が3メートルもあったため、閘門を用いることによって水位差を調整し、船を通しました。
通船の時は、堀の土手から船につけた網を引いて通しました。
この時船頭はもちろんのこと、近所の人々の大きな助けが必要でした。
平成24年㋂
出典:さいたま市教育委員会
注意 この史跡は文化財保護法によって指定されています。みだりに現状を変更したり、減失し、き損、衰亡等保存に影響を及ぼす行為は禁止されています。
八 丁 堤
所在地 さいたま市緑区大間木~川口市木曽呂
八丁堤は、関東郡代の伊奈半十郎忠治が築いた人工の堤である。
この堤は、長さが八町(約870メートル)ほどあるのでその名がつけらた。
徳川家康の関東入国後、伊奈氏は累代治水事業に力を尽し、利根川や荒川の流路を替えたり灌漑用水池をつくるなど関東地方の治川事業を次々に完成させた。
見沼溜井もその一つである。
寛永六年(1629)、伊奈忠治は、両岸の台地が最も接する旧浦和市大間木の附島と川口市木曽呂の間に八丁堤を築き灌漑用水池をつくった。
その面積は1200ヘクタールに及ぶ広大な溜井であった。
この溜井は、下流地域221か村の灌漑用水として使われたが、大雨が続くと氾らんしたり、旱ばつのときは、水が足りなくなったりするなどいろいろ不都合が出て、享保十二年(1727)、八代将軍吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永によって干拓されるに至った。
また、この八丁堤は寛永六年に伊奈忠治が陣屋を構えた赤山に通ずる「赤山街道」の一部でもある。
昭和58年㋂
出典:さいたま市
見 沼 通 船 堀
指定種別・名所 史跡・見沼通船堀
指定年月日 昭和57年7月3日
所 在 地 埼玉県浦和市大字大間木・下山口新田
見沼通船堀は、享保16年(1731)に幕府勘定吟味役井沢弥惣兵衛為永によってつくられた我が国最古とされる閘門式運河です。
通船堀は代用水路縁辺の村々から江戸へ、主に年貢米を輸送することを目的として、東西の大用水路と芝川を結ぶかたちで八丁堤の北側につくられたものです。東縁側が約390m、西縁側が約654mありますが、大用水路と芝川との間に水位差が約3mもあったため、それぞれ関を設け、水位を調整して船を上下させました。関と関との間が閘室となり、これが閘門式運河と呼ばれる理由です。
閘門をもつことが見沼通船堀の大きな特徴となっており、技術的にも高く評価されています。
通船堀を通って江戸に運ばれたものは、年貢米の他野菜、薪炭、酒、柿渋など代用水縁辺の村々の生産物で、江戸からは肥料、塩、魚類、醤油、荒物などが運ばれました。
通船を行うのは、田に水を使わない時期で、初め秋の彼岸から春の彼岸まででしたが、後に冬場の2ヶ月程と短くなりました。
通船は明治時代にも盛んに行われましたが、陸上交通の発達などによってすたれ、大正時代の終わり頃には行われなくなり、昭和6年の通船許可の期限切れとともに幕をおろしました。
見沼通船堀は、江戸時代中期の土木技術や流通経済を知る上で貴重な史跡として国の史跡に制定されています。
また通船差配(船割役)の鈴木家住宅もあわせて指定され、保存されています。
文 化 庁
埼玉県教育委員会
出典:さいたま市教育委員会
東沼神社
由緒 創立不詳でありますが、鎌倉時代末期から江戸時代の初期のころの創立と思われます。 もとは、木花咲耶姫を奉斉した浅間神社でしたが、明治40年に、差間村の稲荷社、菅原社、間宮村の大白天社、氷川社、北原村の稲荷社、行衛の稲荷社、菅原社の7社を合社して、社名を東沼神社と改称しました。
出典:埼玉県の神社[vr url=https://ji2c.files.wordpress.com/2019/05/unnamed-file-99.jpg view=360]
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大崎公園
当公園は、見沼田園を造成して1977年4月開園した公園で、遊具はもちろん1978年6月開園した植物園、1979年5月開園したこども動物園、芝生の広場や釣り池、1973年開設の農業者トレーニングセンターや入浴施設などを備え持った公園施設である。休日はこども連れの親子などの来客でにぎわう。
また2009年(平成21年)の夏季には、さいたま市主催のさいたま市花火大会が当施設において行われた。
ソース: 大崎公園 (さいたま市) – https://ja.wikipedia.org
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さいたま市指定有形文化財(建造物)
深井家長屋門 附弘化元年棟礼
平成4年㋂25日指定
この長屋門は茅葺寄棟造りで、桁行21.200m、梁行5.465mあり、中央の通路部分は幅4.740mあります。この通路部分の正面は、いわゆる「立ち隠れ」がある形式で、半間下げて門構えが設けられています。
なお、弘化元年(1844)の建立年を記して棟礼が伝わっています。
長屋門については、その建立年代に加えて、立ち隠れの有無、格式張った門構えか否か、扉が両開きが引分けか、門の両脇空間が閉鎖的か否か、という構造上の四点に着目することが、その成り立ちを理解する上での手助けとなります。
市内の指定文化財を例にとると、「大門宿本陣表門」(県指定・元禄七年―1694)や「永田家長屋門」(市指定・江戸時代末期)は立ち隠れがあり、冠木のある門構えに両開きの扉を持ち、両脇は閉鎖的な部屋で、一部板床が張られ、番所もあります。一方、旧武笠家長屋門(市指定・天明3-1783)は立ち隠れがなく、引き分け戸で、背面はすべて開放され、全面が土間となっています。前者は武家の薬医門にも通じる形態といえ、後者は門というよりも納屋といった印象を受けます。
深井家長屋門を正面から見ると、前述のとおり立ち隠れがあり、堅固な門構えに両開きの扉を吊っています。規模が大きいこともあって、江戸時代には上野田村天領分の名主役を勤めた深井家として、必要な格式を備えた表門であるといえます。
しかし、背後から見ると、ほとんどの部分が開放となっていて、かつて同家で盛んに行っていた柿渋作りをはじめとした各種の農作業にあって、欠くことのできない作業場であったことがわかります。格式と実用性とを巧みに両立させた建築といえます。
市内に残る長屋門のなかでも江戸時代に遡るものは少なく、さらにその多くは屋根などの外観に変更を受けています。その中で深井家長屋門は当初の姿を伝え、建立年代も判明している貴重なものです。
また、近世農村の名主家屋敷における門の位置付けを伝える資料でもあります。
平成14年1月
出典:さいたま市教育委員会
さぎ山記念公園
さぎ山記念公園は、埼玉県さいたま市緑区にある公園・緑地である。見沼代用水東縁を挟んで見沼自然公園と隣接する。周辺にはかつて特別天然記念物に指定されていた野田のさぎ山があった。
ソース: さぎ山記念公園 – https://ja.wikipedia.org
見沼代用水路の開祖
井澤弥惣兵衛為永は紀州溝ノ口村(現和歌山県海南市)に生まれ、その年を明確に表すものはありませんが、徳川幕府が寛政年間にまとめた系譜集によると承応3年(1654)になっています。
為永は幼少の頃より学問、特に算術に秀でており、若くして
紀州藩に仕え、水利事業にその才能を発揮し、紀ノ川水系に造成
された亀井池は代表的な施設として現在でもその姿を保つています。
享保元年、徳川吉宗が八代将軍になった頃の幕府は財政状況が
大変苦しく、財政改革に乗り出した吉宗は紀州徳川藩主当時、
治水事業に能力を発揮していた為永を享保7年、江戸に召し出し、
紀州流といわれる土木技術により多くの新田開発をし、財政改革に
大きく貢献しました。
為永は享保10年、新田開発のため見沼溜井を視察し、干拓後の
水源を見沼に代わって利根川より水を引くこととし、享保12年
(1727)より工事を開始し、元荒川の底を通す伏越・綾瀬川
の上を通す掛渡井等を構築し、翌年の春に完成させ、総延長
約60㌔に及ぶ見沼代用水路をわずか半年にて完成させました。
これにより見沼溜井約1200㌶の新田開発と八丁堤
下流の水源を確保することとなりました。
また、見沼代用水の開削に合わせ小林沼(久喜市)等の、数多くの沼地を開墾し、黒沼・笠原沼用水・天久保用水、高沼用水を始めとする多くの用水路を手掛けています。
そして閘門式運河としての通運施設を開発し、芝川と東縁・西縁用水路を結ぶ通船堀を享保16年(1731)完成させています。これは当時の我が国の技術レベルの上でも世界の通運史上からみても特筆されるものであり、現在通船堀遺跡は国指定史跡となっています。
為永は晩年、美濃部郡代を兼ね、元文3年(1738年)㋂にその生涯を閉じたとされています。
なお、「見沼代用水路」の名称については、
見沼に代わる水源としての用水路との
理由から命名されたものです。
見沼たんぼ首都高ビオープ
ビオープとは・・・「地域の野生の生きものがくらす場所」という意味のことばです。
整備のポイント
①池や湿地をつくる
元々が湿地だった見沼たんぼ地域の自然を再生し、多くの種類の生物を呼び込みます。
②見沼周辺に生えている木を植える
景観を守ために、周辺に生えている樹木の種子を集め、2万本以上の苗木を栽培して植えました。
③草原をつくる
芝川の堤防の自然と一体化させるため、チガヤを主にした草原をつくります。
ビオトープ整備の目的
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