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平成30年春季皇居乾通り一般公開
特別史跡江戸城跡
江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。
以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
明治維新後江戸城は皇居となり、昭和24年に西の丸下及び現在の皇居を取りまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年からは北の丸の地域が加えられ広く国民に親しまれている。
この江戸城跡は、三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和38年5月30日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。
出典:環境省皇居外苑管理事務所
皇居坂下門
坂下門は江戸城西の丸造営直後に築かれた門が坂下門。江戸時代には西の丸大奥に近く、西の丸の通用門として利用されていました。現在、西の丸は皇居となっているため、宮内庁の管理で、通常は立ち入ることができません。文久2年1月15日(1862年2月13日)、老中・安藤信正がこの門外で水戸浪士に襲われた「坂下門外の変」は有名。
出典:東京とりっぷ
宮 内 庁
宮内庁(英語: Imperial Household Agency)は、日本の行政機関のひとつ。皇室関係の国家事務、天皇の国事行為である外国大使・公使の接受に関する事務、皇室の儀式に係る事務および御璽・国璽の保管等を所管する内閣府の機関である。
なお、宮内庁はかつて「総理府の外局」であったが、現在は内閣府の外局(内閣府設置法第49条、第64条)ではなく「内閣府に置かれる独自の位置づけの機関」とされている(内閣府設置法48条)。官報の掲載では内閣府については「外局」ではなく「外局等」として宮内庁を含めている。
ソース: 宮内庁 – https://ja.wikipedia.org
皇居宮殿長和殿
皇居立つ。1969年(昭和44年)1月2日、新宮殿完成後初の皇居一般参賀で昭和天皇らが長和殿ベランダに立った際、パチンコ玉で狙われる事件が発生した。皇族は負傷しなかったが、この事件の後、長和殿ベランダ中央部には防弾ガラスが設けられた。 春秋の間 宮内では豊明殿に次いで広い大広間で、各国賓客の歓迎会や拝
ソース: 皇居宮殿長和殿 – https://ja.wikipedia.org
富 士 見 櫓
「櫓」とは、倉庫や防御の役割をもった建物で、かつて江戸城には19の櫓がありました。今は、伏見櫓、桜田二重櫓と、この富士見櫓の3つが残っています。その中で、富士見櫓は唯一の三重櫓です。明暦の大火(1657年)で消失した天守閣の代用としても使われ、将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれています。
皇居乾通り一般公開
皇居坂下門から参入,皇居乾門から退出,又は皇居東御苑の大手門,平川門若しくは北桔橋門から退出となります。
皇居乾通り一般公開は,平成26年に,天皇陛下の傘寿を記念して,初めて春季と秋季に実施したもので,大変好評であったことにかんがみ,平成27年秋季から,毎年春季の桜の時期と秋季の紅葉の時期に実施しているものです。
出典:宮内庁
サクラ バラ科
フユザクラ
冬桜
サクラ バラ科
ベニシダレザクラ
紅枝垂桜
バラ科
コシノヒガンザクラ
サクラ バラ科
コマツオトメ
小松乙女
サクラ バラ科
コマツオトメ
小松乙女
皇居乾通り 乾門出口
乾門は江戸城の乾(いぬい=戌亥/北西)の方向にある門の一つですが、実は明治21年、皇宮建設の際に新たに誕生した「明治の門」。坂下門の内側にあった西の丸裏門を移築したものです。新年一般参賀、桜の開花期、秋の紅葉の時期に行なわれる「皇居乾通り一般公開」の際に出入り口として使用されます。
出典:東京とりっぷ
千鳥ヶ淵公園
大正8(1919)に開演。面積15,845㎡。半蔵濠に面した敷地、内堀通りを挟んで大使館の桜並木、そして千鳥ヶ淵交差点角の敷地の3ヶ所に分かれている。
英国大使館前の桜並木は、明治14(1881)年に英国公使アーネスト・サトウから寄贈された桜に由来する。
駐日英国大使館
駐日英国大使館(英語: British Embassy Tokyo)は、イギリス政府が日本に設置している大使館である。所在地は東京都千代田区一番町一。
ソース: 駐日英国大使館 – https://ja.wikipedia.org
鍋割坂
鍋割坂のある山は土鍋を返したような形となっており、その山を割るような形の坂であることからその名がついた。
ソース: 鍋割坂 – https://ja.wikipedia.org
靖國神社境内案内図
由緒
靖國神社は、明治2年6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年に「靖國神社」と改称されて今日に至っています。
靖國神社は、国家のために尊い命を捧げられ人々の「みたま(神霊)」を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。
「靖國」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
靖國神社の御祭神
靖國神社には、嘉永6年(1853)以降、幕末、明治維新、西南の役など近代国家に尊い生命を捧げられた神霊、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満州事変・支那事変・大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して国を守るために亡くなられた神霊246万6千余柱が祀られています。
このように多くの方々の神霊が、身分や男女の区別なく、祖国に殉じられた尊い神霊として等しく祀られています。
正式参拝
靖國神社では本殿の奥深くに昇殿し、参拝する事ができます。
戦没者の慰霊と共に、厄祓い、初宮などの祈願参拝も受け付けております。
ご希望の方は、参集殿受付にお申し出下さい。
受付を済ませ後、神職が本殿までご案内いたします。
遊就館
館内には、靖國神社に鎮まる英霊の遺書や遺品をはじめ、英霊のまごころやそのご事績を今に伝える貴重な史・資料が展示されています。
10万点に及ぶ収蔵品の中には、絵画や美術品、武具甲冑、武器類なども数多く含まれています。
サクラ バラ科
ウスズミ
薄墨
歴史と文化の散歩道
千鳥ヶ淵公園
当公園は大正8年(1919)、東京市により開園されました。小公園設置に関する建議を受けたもので、「都会の児童を、交通禍から護る」事が主な目的でした。
明治時代には幼稚園等があり、戦前まで麹町高等小学校や消防庁の庁舎等が半蔵濠に面した園地に建てられていました。この半蔵濠は、明治40年(1907)以降に施工された千鳥ヶ淵を横切る道路工事の為、ふたつに分れた南側の濠の事で、次第に半蔵濠とよばれる様になったのです。
それ以前の千鳥ヶ淵は、田安門の袂から半蔵門まで開けていました。
千鳥ヶ淵は、徳川氏が谷をせき止めつくったものです。
徳川氏は、自然の地形を巧みに活用し、築城したとされています。
千鳥ヶ淵の谷は淀橋台という台地を刻み、日比谷入江へ注いでいました。
淀橋台は、遠く青梅市を起点とする旧多摩川の扇状地(武蔵野台地)の東の端にあり、深く入り組んだ谷が発達しています。
かつて、この谷筋には豊富な地下水が湧き、椎やかしの木が茂り、ヤブ椿が咲いていた事でしょう。現在の公園の形態は、首
都高速道路(千代田トンネル)の工事で解体され昭和39年(1964)につくり直されたものです。
昭和63年4月
千鳥ヶ淵公園
大正8(1919)に開演。面積15,845㎡。半蔵濠に面した敷地、内堀通りを挟んで大使館の桜並木、そして千鳥ヶ淵交差点角の敷地の3ヶ所に分かれている。
英国大使館前の桜並木は、明治14(1881)年に英国公使アーネスト・サトウから寄贈された桜に由来する。
桜の標本木
この桜(ソメイヨシノ)は、
東京管区気象台が開花を
観測するため指定した
「標本木」です。
靖國神社社務所
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