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7月度川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅢ
・蔵造の町並み
・川越城本丸御殿
・仙波河岸史跡公園
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出世稲荷神社について
出世稲荷神社は、江戸時代(天保2年/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。
名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。
すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。
出典:カワゴエール
蔵造りの町並み
「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」
そう言わせた”蔵造りの町並み”は、江戸の町並みが今なお残るエリアです。黒漆喰の壁に、重厚で豪華な蔵造り商家が軒をつらね、商人の活気と道行く観光客で賑わいをみせています。
出典:カワゴエール
時の鐘
時の鐘は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼(時計台)。
建物は、川越市指定有形文化財に指定されている。
ソース: 時の鐘 (川越市) – https://ja.wikipedia.org
川越城と中ノ門堀
川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。
当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。
天文6年(1537)、小田原を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石なものとします。
しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。
江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。
寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁を整えるにいたりました。
中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。
現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行15尺2寸(4.605m)、桁行30尺3寸1分(9.183m)ほどの規模でした。
棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。
※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ
事業の補助を受けて実施しました。
中ノ門堀のしくみ
中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。
西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。
進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。
また、発掘調査ではす城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかりました。
中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60度、西側は30度でした。
つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。
明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。
川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成20・21年度に整備工事を行いました。
仙波氷川神社
大宮氷川神社を総本社とする「仙波氷川神社」。
神社の真裏を走る国道16号線の喧騒を余所に、とても静かな境内です。
境内には稲荷・八坂神社の末社や、川越まつりで披露される仙波町の山車「仙波二郎安家」の保管庫、そして境内奥には遊具がいくつか設置してあります。
そんな仙波氷川神社には、いくつか見どころがあります。それは、「彼岸花」と「古墳」です。
出典:カワゴエール
川越氷川神社
ご神木(欅樹齢約600年)
太根保護のため石路を設けてあります。
ご神木廻りされる方は石路の上を
お通り下さい。
川越氷川神社
ご神木の倒壊について
平成23年9月、関東地方を襲った台風12号の暴風雨を受け、樹齢600年の欅のご神木が幹先10mほどの部分から倒壊しました。
ご神木は奇跡的にも、傍の本殿・石碑そして参拝者を全く傷つけることなく、神社裏に続く細い参道上にその巨体を横たえました。
長年にわたり地域を見守り続けてきたご神木は現在、市内喜多町の共和木材に大切に安置されています。
数年後にはご神木の材を用い、木に宿られた氷川大神の広大無辺なご神徳を、何らかの形で氏子崇敬者の皆様にお頒けしたいと考えております。
川越城本丸御殿
川越城は、埼玉県川越市にある日本の城。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。別名、初雁城、霧隠城。関東七名城・日本100名城。通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。
ソース: 川越城 – https://ja.wikipedia.org
どろぼうばしの由来
所在地 川越市小仙波町一丁目
昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。
ここ喜多院 と東照宮 の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。
盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。
そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。
その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。
この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。
昭和58年3月
出典:埼玉県
どろぼうばしの由来
所在地 川越市小仙波町一丁目
昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。
ここ喜多院 と東照宮 の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。
盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。
そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。
その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。
この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。
昭和58年3月
出典:埼玉県
喜多院 慈恵堂
喜多院は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参拝客が訪れる。
ソース: 喜多院 – https://ja.wikipedia.org
拝観案内(三代将軍家光公誕生の間)
①三代将軍家光公誕生の間
②春日局の化粧の間
③五百羅漢
拝観事務所にて受付の上ご参拝下さい。
拝観時間
3/1~11/23
8:50~16:30
11/24~㋁末日
8:50~16:00
※日・祝は閉館時間を20分延長
拝観休業日
12/25~1/8
2/2~2/3 4/2~4/5 8/16
その他特別行事の時
仙波東照宮
仙波東照宮は、埼玉県川越市小仙波町にある神社(東照宮)。日光・久能山と並ぶ日本三大東照宮の1つ。旧社格は無格社。
祭神
徳川家康公(東照大権現)歴史
元和2年(1616年)に薨去した祭神の法要は、久能山から日光山に改葬される際の元和3年(1617年)に、江戸幕府の「黒衣の宰相」と称された天台宗の僧侶・天海によって喜多院で行われ、後水尾天皇から東照大権現の勅額が下賜され、同年にその地に天海によって創建された。1638年(寛永15年)の川越大火で焼失するが、徳川家光によって川越藩主で老中の堀田正盛が造営奉行に命ぜられ、幕府によって再建された。江戸時代を通じ社殿や神器等全て江戸幕府直営であった。
本殿には木像の家康公像が祀られている。石鳥居は寛永15年(1638年)に堀田正盛が奉納したもの。本殿のまわりには歴代の川越藩主が献燈した石灯籠が並ぶ。拝殿にある三十六歌仙絵額は岩佐又兵衛筆で知られ国の重要文化財。岩槻藩主の阿部重次が奉納した「鷹絵額十二面」は狩野探幽作で知られる。
童謡『あんたがたどこさ』発祥の地と言われる。
ソース: 仙波東照宮 – https://ja.wikipedia.org
仙波の滝の水音
むかしこの場所には「仙波の滝」と呼ばれる滝がありました。これは愛宕神社のがけ下からの豊かな湧水による滝で、昭和の中ごろまで流れていたそうです。
「仙波河岸」は明治の初めごろにこの仙波の滝を利用して開設されました。
下の写真は仙波の滝で憩う人びとの様子を写した明治34年ごろの写真です。
仙波愛宕神社
仙波愛宕神社 拝殿
川越市富士見町にある仙波愛宕神社は、防火の神「火産霊神」を祀った神社。
仙波愛宕神社の拝殿・本殿は、盛り上がった小山の上にありますが、この小山はなんと古墳。川越市指定の史跡「愛宕神社古墳」です。
また境内には松尾芭蕉の句碑があり、こう刻まれています。
「名月に 麓の霧や 田の曇)」
ここ一帯は仙波台地と呼ばれ、芭蕉がこの句を読んだ伊賀国上野赤坂(三重県)と同じく、台地の先っぼで眺望がよく月見がしやすいことからこの句碑が置かれています。
ちなみに、仙波愛宕神社境内では、木々が多いせいで素晴らしい眺望は望めません…。
出典:カワゴエール
※ 延命地蔵尊
この延命地蔵尊は、今から約270年前の元文元年(1736年)に祀られました。
延命地蔵尊は延命、利生を請願する地蔵菩薩であります。
新しく生まれた子を護り、短命、天折(若死に)の難を免かせるという。
お姿は、左足を垂下する半跏像が多いといわれていますが、ここの延命地蔵尊も半跏像であります。片足を他の足の腿上に組んで座っておられます。
歴史を訪ね、先人の信仰の篤かったことを偲びながら、参観するのも意義あることでしょう。
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