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第23回 日比谷街角ウォーク
“街角に楽しさを探して”
NPO・東京都ウオーキング協会
日比谷公園 水飲み
この水飲みは、日比谷公園開設当時(昭和36年)のものです。
鋳鉄製で重厚ななかにも細かな装飾が施され、デザイン的にも見応えがあります。
また、馬も水を飲めるような形に作られており、陸上交通の重要な部分を牛馬が担っていた当時がしのばれます。
ルーパロマーナ
(ローマの牝狼)
この彫像は、昭和13年にイタリアから東京市に寄贈されたもので、ローマ建国の大業を成し遂げたロムルス、メルス兄弟の有名な伝説に基づいた像です。幼い兄弟は、祖父を殺し王位を奪ったアムリウスによってチベル河に流されましたが、忽然と現れた一匹の牝狼に助けられ、その乳を飲んで成長し、成人した兄弟は祖父の仇を討ちローマを統一したと言われています。
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史跡 江戸城外堀跡の石垣
正面の石垣、虎ノ門から続く江戸城外堀の一部です。この石垣は、寛永13年(1636)に築かれたものですが、部分的に不揃いな積み方があることから、数度も改修されたと考えられます。石垣には石を割った矢穴や構築大名を示す刻印がみられます。
もともとこの堀は、石塁として高さ9mほどの石垣が続いていましたが、現在はその一部が点在して残るだけです。ここでは、長さ20m、高さ7.4mの石垣をすべて保存したうえで一部埋め戻して、変形をきたした石垣を伝統技法によって旧態に戻す解体修理を実施しました。
この展示室と旧庁舎中庭石垣では、外堀の堀底および推定される水面の高さを表示し、正面の石垣は水面からそびえる石垣の姿を再現しました。当敷地内には3カ所で石垣を公開するとともに、石垣のラインを表示しました。これによって、江戸城外堀跡と現代の街区との比較が現地で確認できます。積替の石は同じ外堀の丸の内一丁目遺跡のものを使用しました。
虎ノ門金刀比羅宮
金刀比羅宮は、東京都港区虎ノ門一丁目にある神社。敷地内には、金刀比羅宮との複合施設として高層オフィスビルの虎ノ門琴平タワーがあり、社務所や神楽殿といった施設と一体化している。
ソース: 金刀比羅宮 (東京都港区) – https://ja.wikipedia.org
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南桜公園と南桜小学校
関東大震災後の帝都震災復興事業により、昭和3年に、鉄筋コンクリート造の新しい南桜小学校が竣工し、翌年には、隣接して南桜公園が開園しました。
昭和20年の空襲の戦禍を逃れ、たくさんの子ども達が巣立ち、長い間地域の方々に親しまれた校舎でしたが、南桜公園の拡張整備のため、解体されました。
公園の中には、小学校敷地にあったソメイヨシノ、二宮尊徳像、石碑が当時の思い出を偲ぶものとして保存されています。
小学校の歴史
明治10年 この地区の近くに前身である「第二中学区第28番公立小学校櫻田女学校」が開校する(児童数160名)。
明治24年 校名が「南櫻尋常高等小学校」に変わり、男子も加わ
る(児童数200名)
大正12年 関東大地震
昭和39年 西桜小学校と南桜小学校を統合し、「桜小学校」開校。
平成3年 統廃合により桜小学校。桜、鞆絵(ともえ)、桜田の各
小学校を統合し、「御成門小学校」開校。
平成21年 旧桜小学校校舎解体。
平成22年 校舎跡地が南桜公園となる
(「港区教育史」ほか より)
港区東新橋一丁目2番地
0哩標識
1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936(昭和11)年に日本の鉄道発祥の地 として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。1958(昭和33)年10月14日、旧国鉄によって「0哩標識は鉄道記念物に指定され、1965(昭和40)年5月12日、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の指定史跡に認定されました。
創業時の線路
創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は恋しや砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地上に出ていました。レール断面は上下対象のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、乗ろこの枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年イギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われた跡、新潟柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両方から寄贈いただきました。
プラットホーム
構造
プラットホームは「盛土式石積」という構造で作られています。
両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家領屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていました。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく、2・3段目では小口面が続く個所もあり、4・5段目では長手面が並ぶ個所もあります。
規模
プラットホームの全長は151.5m、幅は9.1mありました。再現されたのはそのうち駅舎寄りの25mです。遺跡指定の範囲に残されているプラットホームの遺構は35mです。
日比谷神社
日比谷神社は、東京都港区東新橋にある神社である。
豊受大神(稲荷神)・祓戸四柱大神(瀬織津比売大神・速開都比売大神・気吹戸主大神・速佐須良比売大神)を祀る。旧称 日比谷稲荷明神。氏子地域には汐留も含まれる。
ソース: 日比谷神社 – https://ja.wikipedia.org
旧芝離宮恩賜庭園
旧芝離宮恩賜庭園は、東京都港区海岸にある都立庭園。大久保忠朝上屋敷の庭園楽寿園が始まりで、宮内庁管理の離宮を経て、大正13年(1924年)東京市に下賜され、旧芝離宮恩賜庭園として公開された。
ソース: 旧芝離宮恩賜庭園 – https://ja.wikipedia.org
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海水取入口跡
「潮入りの池」に海水を取り入れるために、設けられた水路です。
水路の石垣や鋼鉄製の水門の遺構が見られます。
現在は海とのつながりを絶たれ、淡水の池になっています。
九尺台(九盈台)
「九尺」とは高さ、「盈」とは水や月が満ちるという意味です。
海の波打際に造られたこの高台は、いつ造られたものか不明ですが明治天皇が明治8年にこの庭園に行幸された際、この台上から、海で漁民達が漁をする様子や海の眺望を楽しまれたところです。
石 柱
この石柱は」、小田原北条家」に仕えた戦国時代の旧邸から運ばれた門柱です。
ここが小田原藩(大久保家)の上屋敷であった当初、茶室に使われていたといわれています。
石 柱
この石柱は」、小田原北条家」に仕えた戦国時代の旧邸から運ばれた門柱です。
ここが小田原藩(大久保家)の上屋敷であった当初、茶室に使われていたといわれています。
枯 滝 石 組
旧芝離宮恩賜庭園
沿革
小石川後楽園とともに、今に残る最も古い大名庭園のひとつです。典型的な「池泉を中心とした回遊式庭園」で、その地割りと石組は秀逸です。この地はかつて海面でしたが、明暦(1655~1658)の頃に埋め立てられ、延宝(1678)年に老中・大久保忠朝の邸地となりました。忠朝は上屋敷を建てる際に、藩地の小田原から庭師を呼び寄せて作庭し、これを「楽壽園」と命名しました。
その後、数氏を経て、幕末には紀州徳川の芝御屋敷となりました。明治4(1871)年に有栖川宮家の所有になりましたが、同8(1875)年に宮内省がこれを買い上げ、翌年に芝離宮となりました。大正12(1923)年関東大地震によって、建物と樹木のほとんどが焼失しましたが、翌13(1924)年1月、昭和天皇のご成婚記念として東京市(都)に下賜され、庭園の復旧と整備を施して、同年4月に「旧芝離宮恩賜庭園」として一般に公開されました。昭和54年(1979)年6月に「旧芝離宮庭園」(文化財指定名称)として国の名勝に指定されています。
入園のご案内
開園時間:午後9時~午後5時(入園は4時30分まで)
休園日:12月29日~1月1日
旧芝離宮恩賜庭園
沿革
小石川後楽園とともに、今に残る最も古い大名庭園のひとつです。典型的な「池泉を中心とした回遊式庭園」で、その地割りと石組は秀逸です。この地はかつて海面でしたが、明暦(1655~1658)の頃に埋め立てられ、延宝(1678)年に老中・大久保忠朝の邸地となりました。忠朝は上屋敷を建てる際に、藩地の小田原から庭師を呼び寄せて作庭し、これを「楽壽園」と命名しました。
その後、数氏を経て、幕末には紀州徳川の芝御屋敷となりました。明治4(1871)年に有栖川宮家の所有になりましたが、同8(1875)年に宮内省がこれを買い上げ、翌年に芝離宮となりました。大正12(1923)年関東大地震によって、建物と樹木のほとんどが焼失しましたが、翌13(1924)年1月、昭和天皇のご成婚記念として東京市(都)に下賜され、庭園の復旧と整備を施して、同年4月に「旧芝離宮恩賜庭園」として一般に公開されました。昭和54年(1979)年6月に「旧芝離宮庭園」(文化財指定名称)として国の名勝に指定されています。
入園のご案内
開園時間:午後9時~午後5時(入園は4時30分まで)
休園日:12月29日~1月1日
浜離宮恩賜庭園
へようこそ
中の御門
午前9時から
開園いたします。
閉演中の立ち入りは出来ません。
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