師走の冬晴の下、
「第209回ウイークデーウオーク
大仏巡礼②」に参加
わがまちシンボル
大空の門(おおぞらのもん)
完成当時の大空の門 | 補修する前の大空の門 | 補修した後の大空の門 |
昭和43年 大空の門が完成しました。
ネコのような特徴のある顔。私の名前は大空の門。太陽の門って呼ぶ人もいるけどね。昔はきれいにお化粧して、周りの木もなかったので全体の姿が見えていたんだ。
昭和43年。このころ、赤羽駅の西側には既に赤羽台団地が完成し、東側はこれから開ける場所だったんだ。そこで私は、「新しいまちづくりのきっかけとなる東西を結ぶゲート」として、また、「明るい楽しいまちの様子や発展するまちの姿を見守るシンボル」として、思いを込められ、つくられたんだ。
また、私は、遊具としてのもう一つの顔があって、子どもたちに人気の見晴らしの良い「らせんすべり台」として最近までずっと活躍していたんだ。
らせん階段を上がると、地上4.5mの高さから赤羽公園全体を見渡すこともできたんだよ。
平成24年 大空の門がモニュメントとして生まれ変わりました。
人気のすべり台だった私は、平成21年に検査を受けたところ、子どもたちに安全に遊んでもらうことができないということがわかったんだ。そこで、いったんすべり台の利用をやめて、これから先のことをみんなで考えてもらうことになったんだ。区からは、そろそろ寿命だから取り壊そうという話がされたけど、ここにずっと残しておいてほしいというまちの人の話もあり、一年かけて何度も話し合われたんだ。
その結果、私は遊具としての役目を終えて、モニュメントとして新しく生まれ変わることになったんだ。
私は、これからも子どもたちが元気に遊ぶ姿を見守っていくよ。
平成24年1月 大空の門補修工事完了
【補修内容】内部補強、表面洗浄、亀裂補修、塗装、管理用扉設置
出典:北区道路公園課
正光寺 (東京都北区)
当寺院の創建は鎌倉時代にまで遡る。良忠上人を開山として、石渡民部少輔保親を開基として、創建した。当時正光寺と隣接していた地に西光寺としてあった。
その後衰退し荒廃したが、慶長7年(1602年)小田切将監重好と眞譽龍湛上人によって現在の地に寺を移転、小田切将監重好の法号によって正光寺となった。以来、岩淵町の中心的な寺院となり、境内には植木市なども開かれていた。
しかし、1978年に本堂が焼失。以降再建されず、しばらくは空き地のようになっていたが、2011年7月に本堂その他が再建され、現在では本来の姿を取り戻しつつある。
なお、寺伝によると本尊の阿弥陀如来は春日仏師の作で、また観音堂にある観音像は源頼朝公守本尊といわれ行基の作であると言われている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岩淵大観音
赤羽駅近くの岩渕町 正光寺境内に鎮座されている高さ10mの大観音。
明治3年近くを流れる荒川の氾濫を鎮めるため近隣の方々が金品を出し合って製作された。
正光寺は鎌倉時代に創建された浄土宗の寺院、その後、衰退し荒廃したが、2011年に再建された。
出典:NPO東京都ウオーキング協会
十条冨士神社
創建年代は不明であるが、食行身禄(1671年生~1733年没)の富士信仰運動以降に創建されたと推測される。
毎年6月30日になると、翌日7月1日の富士山の山開きに合わせて、富士講「十条冨士神社伊藤元講」が主催する大祭が2日間行われる。この大祭は「おふじさん」の名前で親しまれ、都道460号線(日光御成道)から十条銀座まで続く道には、露店が立ち並び、多くの人で賑わう。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
十条冨士神社
十条冨士塚(じゅうじょうふじづか)は、十条地域の人々が、江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。
現在も、これを信仰対象として毎年6月30日・7月1日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は、頂上の石祠(せきし)を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは冨士講の信仰習俗の特徴のひとつです。
塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、30数基あります。銘文(めいぶん)によれば遅くとも、天保11年(1840)10月には冨士塚として利用されていたと推定されます。
これらのうち、鳥居や頂上の石祠など16基は明治14年(1881)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄(じきぎょうみろく)、本名伊藤伊兵衛の150回忌に当りました。石造物の中に「冨士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。
形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳(こみたけ)神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。
出典:北区飛鳥山博物館
地福寺 (東京都北区)
康平年間(1058年~1065年)、仁和寺の僧・経邦によって開山された。経邦は前九年の役の際に源頼義に随行、頼義の帰還後も当地に留まり、当寺を開山したという。
江戸時代、当寺の正面の道が日光御成道(現・都道460号線)だったこともあり、徳川将軍の日光社参時には休憩所としても使われた。
当寺の住職はハンセン病患者救済に取り組んでおり、境内には、「母娘遍路像(救らいの像)」や貞明皇后の彫像がある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
地福寺
全国のハンセン病患者への多額のお見舞金を贈られた貞明皇后の功績を永く世に伝えるため、ハンセン病療養所 多摩全生院の駐在布教師であった地福寺の住職が中心になり皇后陛下のお像を製作、平成12年完成 八角堂に展示。「皇后陛下の八角堂」と呼ばれている。
出典:NPO東京都ウオーキング協会
―貞明皇后御製―
つれづれの友となりてもなぐさめよ
ゆくことかたきわれにかはりて
ハンセン病にたいする偏見が社会に根強く残る昭和の初め、大正天皇の妃・貞明皇后は不運な病に見舞われた人々に深くお心を痛められ、温かい励ましのお言葉と共に多額のお見舞い金を屢々全国のハンセン病療養所に贈りになされた。
後年、そうしたお見舞いが、一足の足袋を繕っては履くという陛下御自身の御暮らしをきびしく切り詰めた上でなされたものであることを知り、病者たちの感激は一入であった。(『全生今昔』「繕われた足袋」)
平成8年、らい予防法の廃止を機に、近代皇室によるハンセン病救援事業の草分けとなった陛下の御事業を永く世に遺すため、国立療養所多磨全生園内に「貞明皇后像建立委員会」を結成、財団法人・藤楓協会の御協力を得て製作の運びとなった。
完成されたお像は、広く一般の方々に御覧頂くため地福寺境内に一宇「慰音堂」を建立し、これにお納めすることとした。
幾そ度御下賜給ひし皇后陛下の
ほつれ縢れるしろき足袋かも
お像は、全生園駐在布教師・三輪照峰師詠の右の歌をテーマに、繕いを重ね足袋を時の林 芳信園長にお譲り渡しになっているお姿を表現した。又、彫刻は同園療養者で元船大工・永見兼吉氏の勤刻である。
平成12年3月吉日
出典:国立療養所多磨全生園
貞明皇后像建立委員会
谷津大観音
板橋区滝野川町の石神井川に架かる観音橋北側に鎮座されている高さ7.7mの大観音。近くの寿徳寺が2008年に建立。
寿徳寺は鎌倉時代に建立された真言宗の寺で、幕末に新選組・近藤勇他隊士たちの菩薩寺。
世界平和
萬民豊楽
子孫繁栄
諸願成就
谷津大観音は、南照山観音院寿徳寺第二十四世住職 新井慧誉和尚の発願によるもので、第二十五世新井京誉がその志を引き継ぎ寿徳寺の寺域である当地の建立着手しました。
寿徳寺がまつる御本尊は聖観世音菩薩であり谷津の観音様と称呼します。大仏を正面から拝せる、石神井にかかる観音橋のたもとから一筋の光明が生まれることでしょう。
平成20年12月吉祥日 開眼供養
當山二十五世 新井京誉
概要 唐金鋳造 佛身4.5m
総高石台共7.7m 唐金重量5t
設計施工 翠雲堂 監修 鏡恒夫 原型製作 渡邉雅夫
こちらの蓮華は大観音様がお持ちの蓮華と同寸です。
泥中より美しい咲く蓮華にどうぞ触れ合って下さい。
池袋大仏
東日本大震災の際、池袋で唯一の木造であった仙行寺(センギョウジ)本堂が損傷、2018年に鉄筋コンクリートへ建て替えられた。本堂ビルは8階建て7階に本堂、1階洞窟のような空間の奥「仏音(ブットン)堂」に、自然の光を受けて、宙に浮く高さ4.6m総ヒノキの池袋大仏が鎮座される。
仙行寺は日蓮宗お寺院で雑司ヶ谷七福神の一つで福禄寿もまつられている。
出典:NPO東京都ウオーキング協会
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