梅雨前の晴れのカラッと明るい夏空を期待して。
アジサイロードの観歩ウオーキング
根岸台六丁目児童遊園地
園内の施設や遊具等を大切にしましょう。 | ゴミは持ち帰りましょう。 | 園内に犬など動物をつれて入らないでください。 |
オートバイ・自転車の乗り入れは禁止します。 | 野球・サッカー・ゴルフの練習は禁止します。 | たき火、火の使用は禁止します。 |
わたしたちの施設です。大切に使っていつもきれいにしましょう。
遊んだあとは、手をあらいましょう。
出典:朝霞市
岡氷川神社
岡氷川神社の創建年代や由緒については不詳ですが、岡村・根岸村・溝沼三村の鎮守として祀られていたといいます。明治時代には村社に列格していました。
出典:猫の足あと
保護地区指定標識
自然はわたしたちの宝です。
緑を大切に守りましょう。
指定 番号 3-7
指定年月日 平成6年12月1日
出典:朝霞市
岡の城山由来記
この城山は今から約8000年~4500年位前の縄文時代の遺跡であるとともに、中世の頃に築城された平山城跡と言われている。
この当時の城主や築城者は今のところ不詳である。この城は南北朝期、室町期、戦国期と各時代にわたって多くの武将を育み、応永の乱(1399年)や応仁の乱(1467年~1477年)等の大きな戦歴の跡を物語っていると言えよう。
また、この城の特徴は自然の物理的要素を活かしたもので、城の北側斜面は低地を流れる黒目川が取り巻くように走り、しかも舌状台地(台地の先端が舌のような形になっているところ)上にあって、まさに天然の要塞を呈している。
そして城内は「折れひずみ」と呼ばれる空壕と土畳によって区分けした郭があり、1ノ郭・二の郭・三ノ郭・四ノ郭・その外西側の虎口、堀切、北側の搦手口、南側の腰部、櫓台、犬走り等によって構成されている。
このような形の城のつくりは「直線連郭式工法」と呼ばれている。
=朝霞市岡の城山総合調査委員会中間報告=より
昭和56年1月1日
出典:朝霞市
お知らせ(朝霞ライオンズクラブ)
朝霞ライオンズクラブでは、平成6年度から9年度までの事業の一環として、当地城山公園内に、市民の皆様に末永く楽しんで頂けますよう〔あじさい植樹〕を行います。
朝霞ライオンズクラブ一同
〔今後共、市民の皆様のご協力をお願いします。尚詳しい事は事務所までご連絡して下さい。〕
出典:朝霞ライオンズクラブ事務局
黒目川遊歩道MAP
念法眞教
念法眞教は、教祖の小倉霊現(小倉庄太郎、1886年9月9日 – 1982年3月5日)が1925年(大正14年)に立教開宗した仏教系の新宗教。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河川占用許可標識
占用目的 | 埼玉県水道用水供給事業 |
占用面積 | 608,83㎡ |
占用者名 | 埼玉県大久保浄水場 |
連絡先 | 埼玉県大久保浄水場工務部 048-852-8841 |
所轄事務所・出張所 | 埼玉県朝霞県土整備事務所 |
この付近の河川は私たちが
美化運動を行っています。
水辺のサポーター平成22年10月協定締結
社会福祉法人朝霞地区福祉会
生活介護事業所すずらん
美化活動区間
志木市下宗岡地内外
(富士下橋から宮戸橋)
出典:朝霞県土整備事務所・志木市
このアジサイは、「彩の国みどりの基金」
このアジサイは、「彩の国みどりの基金」を活用した事業で植えています。
出典:志木市
あぶない!!
🔶一人で遊ばない
🔶小さな子どもだけで遊ばない
🔶こんな時は、すぐに川から離れましょう
・雨が降りはじめた時
・水が流れてくる方の空に黒い雲が見えた時
・雷が聞こえた時
・落ち葉や流木、ゴミが流れてきた時
昆虫のすむ池
私たちのくらしている街は、アスファルトやコンクリートでおおわれている場所が多いため、土の部分が少なくなっています。そのため植物はそだたず、虫たちはすみかをうしなってしまいました。
志木市ではこの池のような場所をできるだけ本来の自然の姿のまま残し、トンボやアメンボウなどの虫たちや虫を食べに集まってくる鳥たちのために守っていきたいと考えています。
この池にコイ、ブラックバス、ブルーギルなどの魚を放流することは、本来の自然の状態の大きなえいきょうを与えることとなるため、絶対にしないようお願いいたします。また、新たに花や草を植えたり、はえている野草をむやみにふみつけたり、ホテイアオイのようなはんしょくりょくの強い植物を捨てたりすることも自然の状態にえいきょうを与えることとなるので行わないでください。
みなさまのご理解とご協力をお願いいたします。
出典:志木市
こもれびのこみち 斜面林の手入れ&自然観察
ボランティア募集
いろは親水公園・こもれびのこみち斜面林は、武蔵野台地と荒川低地の境に位置する、市内でも貴重な林です。
かつての武蔵野の雑木林のように、定期的に人の手を加えることによって、さまざまな木や野草・生き物が棲める、より豊かな林にしていきます。
参加を希望される方は、当日9:30にこの場所にお集まりください。
出典:志木市公園美化活動会
NPO法人エコシティ志木
いろは親水公園
みんなの公園です。次のことに注意して遊びましょう。
〇他の人に迷惑をかける遊びはやめましょう。
〇たき火・花火などの火気を使用することはやめましょう。
〇樹木や遊具を大切にしましょう。
〇夜間の利用は、控えましょう。
〇犬の飼い主はフンを持ち帰り、放し飼いはしない。
〇ごみは持ち帰りましょう。
〇小さな子どもは保護者が同伴し、一人では遊ばない。
〇許可を受けないで物品を販売することはできません。
〇自転車・バイクなどでの散策路への乗り入れはできません。
〇公園を占用する場合は、許可をうけましょう。
出典:志木市役所
あぶない!!
🔶一人で遊ばない
🔶小さな子どもだけで遊ばない
🔶こんな時は、すぐに川から離れましょう
・雨が降りはじめた時
・水が流れてくる方の空に黒い雲が見えた時
・雷が聞こえた時
・落ち葉や流木、ゴミが流れてきた時
いろは親水公園マップ
出典:志木市コミュニティ協議会
いろは樋の大桝
寛文2年(1662)※、宗岡を治めていた岡部氏の家臣の白井武左衛門が、引又(現志木市本町)まで来ていた野火止用水を宗岡でも利用できるようにするため、新河岸川の上をわたす大きな木樋を作りました。この樋は、板を48枚継いでいたことから、「いろは樋」とよばれました。※一説では、万治2年(1659)
この樋は、連通管の仕組みによって、市場通りにあった小桝から地中に埋めた木樋で大樋までつなぎ、さらに木樋をつないで懸け樋の高さまで水を上げていました。
大樋は、はじめは木製でしたが、明治31年(1898)~36年(1903)の工事によりレンガ積みとなり、木樋は川の下を通る鉄管に変わりました。
いろは樋は、昭和40年(1965)市場通りの野火止用水が暗渠となり、灌漑用水としての役目を終えるまで、長きにわたり、宗岡にゆたかな実りをもたらしました。
平成26年3月
出典:志木市教育委員会
文化財まっぷ 歴史散歩案内編
A-コース 野火止用水と引又宿をたずねて
いろは樋の大樋
次は、下の水車跡です。
志木市村山快哉堂
・旧村山快哉堂(市指定文化財)
明治10年(1977年)建築
木造二階建て土蔵造りの店蔵
開館日 :金・土・日・月曜日・祝日
開館時間:午前10時~午後4時
・村山快哉堂ひろば
市指定文化財
旧村山快哉堂
公園入口
中風根切薬
明治10年(1877)11月に建築された木造2階建て土蔵造りの店蔵で平成7年(1995)に解体後、平成13年(2001)にいろは親水公園なかすの林(現:村山快哉堂ひろば)に移築復元したもの。
店蔵が座売り形式の商形態を残す点、一階中央部分の吹き抜け、鉢巻の2段構成、ムシコ窓とその枠回りなど川越の店蔵とは異なる特有の意匠構成が見られ、貴重な有形文化財(建造物)です。
江戸時代から「中風根切薬」「分利膏」「正齋湯」などの家傅薬を製造・販売する薬店。座売り形式を残す点や一階中央に吹き抜けがあることなど特異な意匠がみられる。本町3丁目から移築。
出典:埼玉大使
伝統的建造物旧村山快哉堂
旧村山快哉堂は、明治10年(1877)に建築された木造二階建て土蔵造りの店蔵で、本町通り(本町3丁目)に面して屋敷を構え、「中風根切薬」「分利膏」「正齋湯」などの各種家傅薬を製造、販売する薬店でした。
村山家は、創業以来、平成5年(1993)まで七代にわたって薬屋業を営んでいました。
平成6年に村山家が建物を取り壊すことになっため、市教育委員会では、所有者(当主村山源博氏)から寄贈を受け、平成7年(1995)に解体後、4年の保存期間を経て、いろは親水公園中州ゾーンに約2年間の歳月をかけ、移築復元したものです。
この店蔵の建築年代は、欅の通し柱に墨書きされていた「明治十年丑十一月十二日建之」という文字の発見により確認されました。
当初は、白漆喰の壁でしたが、明治後期ごろ黒漆喰仕上げに改修されています。建造物としては、店蔵が座売り形式の商形態を残している点や一階部分の中央に吹き抜けがあること、また、鉢巻の二段構成やムシコ窓及び開口部の枠回りなど、川越の店蔵とは異なる特有の意匠構成がみられることからも貴重な文化財と言えます。
平成13年3月27日
出典:志木市教育委員会
カッパの郷 志木
⑨宙太郎 |
田子山冨士のナゾを解け
問題(7)
浅間下社の外壁(右側面)に
彫られたレリーフは
「〇〇〇〇〇〇〇〇〇」
カッパの郷 志木
⑦ユーユー ⑧スイスイくん |
田子山冨士のナゾを解け
問題(8)
浅間下社の外壁(右側面)に
彫られたレリーフは
「白糸の〇〇」
新河岸川舟運の歴史
新河岸川舟運と引又河岸
大正時代前の新河岸川は、九十九曲がりと言われるほど蛇行しており、豊かな水量を常に保つことができたため、江戸時代から明治時代にかけて、舟運に利用され、交通の大動脈として重要な役割を果たした。
新河岸川舟運の起源は、寛永15年(1638)に川越の大火で燃えた東照宮・喜多院を再建するため、江戸城紅葉山御殿を運んだことに始まると言われているが、それ以前からも本河岸(現富士見市)や古市場(元川越市)までの舟運が行われていたようである。正保2年(1645)の川越藩主松平信綱が川筋を整備し、舟運が本格化した。
引又河岸(明治7年からは志木河岸と言われる)は、新河岸川の河岸場のなかでも、取引の範囲が群を抜いて広大であり、所沢・立川・八王子・青梅さらには甲府まで荷主が分布していた。これは、府中から大宮を経て奥州に達する奥州街道と交差する交通の要衝であり、また、江戸時代初期から六斎市(月に6回行われる定期市)が立てられていたことによると考えられる。
舟運に使われた舟は、80石~100石(1石は、一人が1年間に消費する米量)ぐらいの規模だったが、速さによって分けられ、飛切(引又を夕方出て翌日の夜明けに花川戸(現浅草)に着く)、早舟(下りに15時間)、並舟(不定期)の3種類があった。
取り扱われた貨物は、江戸からの上りものでは綿糸・太物・小間物・雑貨・糠・〆粕・塩・藁・石材など、江戸への下りものでは酒・米・大麦・小麦・壁土などであり、多岐にわたっていた。乗客を扱うようになったのは、天保の頃(1830~1840)からで、おもに飛切が使用された。
引又河岸には、いつの時代にも2軒ないしそれ以上の舟問屋が営業していたが、新河岸川の改修により、昭和6年(1931)には廃業に至った。
県では、平成23年(2011)に新河岸川舟運の復活のシンボルとして、水辺再生100プラン推進事業でいろは橋下流の舟着場を建設し、栄橋下流に引又河岸を復元した。
新河岸川舟運と引又河岸 | 引又河岸(明治37年) |
宗岡閘門と洗堰(通称 いろは水門)
大正10年(1921)から、水害対策を主眼として新河岸川の改修が行われ、舟運の便を図るために昭和4年(1929)に宗岡閘門と洗堰が完成した。
「埼玉のパナマ運河」といわれ、閘門は舟運幅6m、閘室の長さ26mで、前後に各2枚の閘扉があり入力で開閉し、1回の舟運操作時間は約20分であった。水遊びや魚釣りなど人々の憩いの場所としても親しまれた。
昭和初期には、輸送の中心は鉄道に移りその役割を終え、水流の妨げとなることから、昭和55年(1980)に撤去された。
下流から上流に向かう舟は閘門の開閉で水位を合わせて運行していた。
出典:埼玉県土整備事務所
伝統的建造物旧西川家潜り門
この門は、西川家(本町2丁目 当主西川享氏)の中庭に建てられていましたが、取り壊されることとなったため、市教育委員会で寄贈を受け平成8年に解体し、暫く保存してからこの場所に復元したものです。
門の形式は、正式には棟門といいますが、西川家の中腹に建っていたことから潜り門と呼ばれています。
建築年式は、武州一揆の刀の傷跡が扉や柱にみられることや伝承などから、慶応2年(1866)頃と推定されます。
棟高3.03m、総長5.454mの欅造り、屋根は切妻土葺き桟瓦葺きで、昭和2年(1927)頃には、門の両袖に一間の長さの腰縦板張り黒漆喰塀が付けられていましたが、解体時には、右側のみが残されていました。
西川家は、江戸時代初期に、この地に来往し、幕末には酒造業・水車業・肥料商を営むかたわら、引又町の組頭役を務めた名家で、今でも西川本家の通称で呼ばれています。
平成13年3月27日
出典:志木市教育委員会
上の水車
このモニュメントは、大正初期頃までこの地にあった上の水車をしのんで製作されたものです。
上の水車跡
引又宿(現本町1~2丁目付近)には、かつて上の水車・中の水車・下の水車(河岸の水車)と呼ばれる三つの水車がありました。
上の水車が開設されたのは、安永5年(1776)といわれ、引又宿の中では、一番新しい水車でした。
この水車の杵数は天明8年(1788)当時十本で、玉川上水筋に設置された水車としては、その大きさも標準的であったと推測されています。
江戸時代には、このような水車を主に玄米を白米に精製するために使用しており、ここで精米された白米は、引又宿内にあった多数の宿屋、飲食店、酒造業者などで使用されていました。
平成7年10月20日
出典:志木市教育委員会
文化財まっぷ 歴史散歩案内編
Aコース 野火止用水と引又宿をたずねて
上の水車跡
次は、西川地蔵堂です。
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