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★ 埼玉のお城③土呂陣屋跡・11km ★
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八雲神社・砂の大ケヤキ
八雲神社、天満宮、御嶽神社が合祀されている八雲神社には、さいたま市指定天然記念物「砂の大ケヤキ」があります。高さ30m、樹齢600年といわれる「砂の大ケヤキ」の名は、かつてこの一帯が砂村と呼ばれていた歴史に由来します。樹下に観音堂が祀まつられていることから「観音様のケヤキ」の愛称も。その威容は樹形の見事さ相まって存在感を感じさせます。八雲神社は、農作物の豊穣と悪疫追放を祈念し、高さ6mに及ぶ石灯を立ち並べる「砂の万灯」を7月に行います。
出典:さいたま市
大宮市指定文化財天然記念物
砂 の 大 ケ ヤ キ
所在地 大宮市東大宮一丁目三〇-三
指 定 昭和三七年四月一四日
ケヤキはニレ科に属する落葉樹で、武蔵野の防風林を代表する樹木です。昭和四一年九月には、「県の木」に指定されました。
この砂の大ケヤキは、古くから八雲神社の御神木として崇められており、毎年六月三〇日には注連縄が張り替えられます。観音堂西側にそびえているので、むかしから「観音様の大ケヤキ」として広い範囲の人々から親しまれてきました。
樹齢は六〇〇年と推定されますが、樹勢はいまだに衰えることなく、春には新しい葉とともに薄い黄緑色の小さな花を開き、とてもおだやかな樹形で遠くからも望むことができます。
樹 高 三〇メートル
枝張り 二三.八メートル(東西)
二五.五メートル(南北)
根廻り 一九.三メートル
平成六月三月
出典:大宮市教育委員会
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芝 川
芝川は桶川市東方の台地を刻む浸食谷を水源として上尾~旧大宮~旧浦和の東部を経て川口市領家で
荒川と合流する延長約二十九キロメートルに及ぶ荒川水系の一河川である。
享保十二年(一七二七)井沢弥惣兵衛為永は見沼溜井の干拓工事をはじめ、荒川の旧河川を改修利用して沼水を排除した。
翌年春には干拓が終了し、芝川は沿岸諸村五、二〇〇余町歩(約五、二〇〇ヘクタール)の排水路として利用された。
更に同一六年には見沼通船堀が開さくされ、見沼代用水路縁辺の村々から芝川、荒川を通って江戸の河岸まで物質を運ぶ内陸水路が開通し、米、薪炭、野菜な
どの運漕に利用された。
また、芝川の下流水域は豪雨の際、しばしば湛水の害に悩まされたので、その対策として、昭和四〇年東側に新芝川放水路を造ったので滞水の危険性は軽減された。
出典:さいたま市
大 宮 公 園
ここは大宮第二公園は昭和55年にオープンし、テニスコートや軟式野球場をはじめ茶室も一般に解放されています。
早春の梅林では、紅梅、白梅などが咲き誇り、「香りロード」では、花や木の香りを楽しむことができます。
ぐるっと埼玉サイクルネットワーク
⑪大宮の魅力発見ルート
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氷川の森~見沼西緑散歩コース
県指定旧跡
寿 能 城 跡
昭和三七年十月一日指定
寿能城跡は戦国時代の城で、岩槻太田氏に敵対していた北条氏、特に川越城への備えのために、岩槻城の支城として永禄三年(一五六〇)頃築かれたといわれています。
その立地は、かつての見沼が三方を囲み、自然の要客地でした。
ここ寿能公園一帯がかつての本丸跡で、墓碑の立っている塚は物見櫓の跡とも言われています。
見沼代用水路西縁を挟んで、東方の方向には、見沼に飛び出る形で出丸もありました。
岩槻の太田資正の子である潮田出羽守資忠の居城といわれていますが、天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、豊臣勢の攻撃で落城しました。
平成二四年三月
出典:さいたま市教育委員会
寿 能 城 跡
永禄3年(1560年)頃に、岩槻(岩付)太田氏の岩付城の支城として建設された。初代城主は、岩付城主太田資正(三楽斎)の四男(ないし五男)の潮田資忠(母方の姓を名乗った)である。
岩付から見て西方の、見沼の対岸に築城された。氷川神社を後ろにしており、大宮台地のほぼ中央に位置する。かつては北と南に、それぞれ見沼の入江があり、水に囲まれた城だった。大宮台地を挟み、入間川の対岸である河超城との中間に位置する。
太田資正の嫡男氏資が後北条氏方に属して岩付城主になると、寿能城も後北条方の城になる。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際、北条に従って小田原に籠城した城主の潮田資忠・資勝父子は4月18日に小田原城にて戦死した。岩付城と寿能城も豊臣方の浅野長政軍に攻められて5月に落城し、家来やその妻子は見沼に身を投げたと言われる。このことから、大正から昭和初めに村人に供養を願って現れた蛍になった姫の話が伝わっている。
その後は廃城となり、徳川家康の治下に一帯の開発が命ぜられ、城址はほとんど失われたが、徳川に下った資忠の子孫である古河藩家老潮田資方が、元文3年(1738年)に、潮田家遺臣の北沢甚之丞(北沢家は中山道大宮宿の有力者となっていた)に、資忠の墓碑を城跡に建てさせた。
1926年(大正15年)3月21日に埼玉県史跡に指定されたが、太平洋戦争時には城址に高射砲が敷設され、遺構の破壊が更に進んだ。なお、この高射砲は当初大宮公園陸上競技場に設置の予定であったが、関係者の反対により城址に設置されることとなった。終戦後は城址の大半が市街化し、1958年(昭和33年)2月16日に城地の中心である墓碑の周囲(現在のさいたま市大宮区寿能町2丁目155番地)が広さ0.387ヘクタールの寿能公園として整備され、同年4月15日開園式が挙行されたが、城址の面影は残っていない。1962年(昭和37年)に、史跡から旧跡に指定変更された。
出典:ウィキペディア
土呂の地蔵堂
所在地 さいたま市北区土呂町一五一〇
この地蔵堂は、地元の人の話によると、かなり古くから、この地にあって、村民の信仰をあつめていたといわれている。
一説には、江戸時代の土呂村領主旗本初鹿野氏が近くにある同家の墓守堂として建てたものといわれているが、『新編武蔵風土記稿』には「村民の持」と記されているのみで、その創建や由来については詳かでない。
地蔵堂には、現在、本尊の地蔵菩薩のほか、薬師如来、大黒天の三像が安置されている。
なお、初代初鹿野昌久は甲斐国武田の家臣であったが、主家滅亡後、徳川家康に仕え、天正十八年(一五九〇)徳川氏の関東入国に伴って土呂村の領主となったもので、この地蔵堂付近に陣屋を築き、以来幕末まで知行した。同氏が甲斐国から勧請したという御嶽社は幾度かの変遷をみて、現在隣の薄田氏屋敷内に祀られている。
また、東武線南側の墓地跡には初鹿野氏の墓碑が残っている。
昭和六十年三月
出典:さいたま市
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