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10月度JWAのウオーキング教室
大隈重信侯 雉子橋邸跡
早稲田大学の創立者、大隈重信(1838-1922)は、明治新政府に出仕し、大蔵卿等を歴任し、日本国「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎創りに貢献しました。
大隈重信は、1876(明治9)年10月から1884(明治17)年3月まで、雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。
2007(平成19)年10月
出典: 早稲田大学
千代田稲門会
江戸幕府蔵屋敷の礎石
江戸幕府清水門前のこの場所は、将軍直属家臣の居住地や蔵・馬場、厩といった江戸城付属の施設が置かれました。
平成16年の遺跡発掘調査では、近世初頭に水田地帯を埋め立てて屋敷を築いたことがわかりました。ここに設置した石は、敷地南半に広がる米蔵の礎石の一部で、配置は出土状態を再現しています。
礎石の配列から、二棟の東西に長い建物で、明暦の大火(1657年)で焼失したと考えられます。礎石のうち、大きな石材は柱や壁を支え。
小さな石材は床を支える基礎と考えられます。
大隈重信邸跡
近代になるとこの地は、明治政府の厩が置かれましたが、明治9年には二度の総理に就任し、早稲田大学を創設するなど多方面に活躍した大隈重信が邸宅を構えます。
その後、フランス公使館、憲兵練習場、国営竹平住宅を経て現代を迎えます。
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北の丸公園露場
ここでは、気温、湿度、気圧、降水量、感雨(降水の有無)、積雪の深さを観測します。
このような気象観測を行う場所を露場と呼びます。
重要な気象観測を行っていますので、許可なくこの中に入らないで下さい。
出典:東京管区気象台
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ムクロジ
無患子
ムクロジ科ムクロジ属
分布
日本(本州~琉球)
東・東南・南アジア(熱帯~亜熱帯)
出典:北の丸公園
北桔橋門
北桔橋門は、竹橋から千鳥が淵に抜ける通称 代官町通りの北の丸公園入口の正面にある小さな橋であり、皇居の天守台北側と北の丸方面をつなぐ城門でもある。ここは、東の 平川濠 と西の乾濠を分ける土橋になっている部分で、いわゆる橋になっているのは、皇居東御苑の入口から僅か5~6mの部分のみである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
皇 居 東 御 苑
皇居東御苑と天皇皇后両陛下
① ヒレナガニシキゴイ | ② 二の丸池 |
天皇陛下のご発案により、インドネシアのヒレナガゴイと日本のニシキゴイを交配して生まれたものです。平成3年(1991)と平成24年(2012)に、両陛下が御放流になりました。 | 都市化が進むにつれて池や沼が埋められ、かつては普通に見られた水生植物を見る機会が少なくなりました。ここには、ヒツジグサや御所の池から移植したコウホネなど4種類の水生植物が植えられています。 |
③ 新雑木林 | ④ はるかのひまわり |
平成14年(2002)に雑木林を拡張しました。小さな流れを作り、野鳥や昆虫の好む木を植え、御所近くから季節毎に楽しめる様々な野鳥を移植しました。 | 大震災で亡くなったはるかという名前の神戸の小学生の家の跡 に、人々を勇気づけるように咲いたことからそうよばれるようになったひまわりを全国に広げる活動の中で、両陛下にも種が献上され、御所で毎年大切にお育てになっています。そこで採れた種から育てているものです。 |
⑤ 竹林 | ⑥ ヨーロッパアカマツ |
「お印」の「若竹」にちなみ、昭和天皇の御所にはいろいろな竹が植えられていました。珍しい竹を多くの人が見られるようにとの天皇陛下のお考えで、平成8年(1996)にそこから13種類の竹を移植しました。 | 平成20年(2008)に国賓として来日されたスペイン国国王王妃両陛下から天皇皇后両陛下に贈られたものです。両陛下がお手植えになりました。 |
⑦ バラ園 | ⑧ フローレンス・ナイチンゲール |
日本や中国の野生のバラが植えられています。多くは御所近くのお庭から移植したものです。 | フローレンス・ナイチンゲール国際基金発足75周年を記念して作られたバラが献上され、両陛下が平成21年(2009)にお手植えになりました。 |
⑨ 果術古品種園 | |
江戸時代にはよく作られていたものの、品種改良が進んだために、今ではほとんどが顧みられなくなった果樹を集めました。平成20年(2008)から植えられ、両陛下もお手植えになりました。 |
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イネ科
キッコウチク
イネ科
ギンメイチク
イネ科
オウゴンチク
竹 林
この竹林は上皇陛下のお考えから、平成8年(1996年)に整備されました。
昭和天皇がそのお印であった「若竹」にちなみ喜寿の記念等に宮内庁職員から送られ、吹上御殿にお植えになっていたものを、こちらに移したものです。日本と中国の竹・笹類13種類が植えられています。
❶ | インヨウチク | 島根県比婆山特産で、葉はクマザサのように大きく、緑色。 | |
❷ | カンザンチク | 中国産で、ササの中で最大級。 | |
❸ | シホウチク | 中国原産で、稈は四角形。 | |
❹ | コンシマダケ | マダケの変種で、葉に濃紺色の縞模様 | |
❺ | ラッキョウヤダケ | ヤダケの品種で、節間が膨れてラッキョウ型。 | |
❻ | ホウショウチク | ホウライチクの変種で、葉に白い縞模様。 | |
❼ | スホウチク | ホウライチクの変種で、稈に紅黄色の縦縞。 | |
❽ | ホウライチク | 中国産で、稈が密生。 | |
❾ | オウゴンチク | マダケの変種、稈は黄金色。 | |
❿ | キンメイチク | マダケの変種、稈は黄色に緑色の縦縞。 | |
⓫ | ギンメイチク | マダケの変種、稈は緑色に黄色の縦縞。 | |
⓬ | キッコウチク | モウソウチクの変種で、下部の節間が交互に膨れて亀甲状。 | |
⓭ | キンメイモウソウ | モウソウチクの変種で、稈に黄色の縦縞。 |
※竹の幹を稈(かん)と言います。
江戸城 富士見多聞櫓
「多聞」は、長屋造りの防御施設です。
江戸城には多くの多聞がありましたが、現存するのは、この富士見多聞と、伏見櫓の左右にある多聞だけになりました。現在は富士見多聞は、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火(1657年)の後、諸建物が再建された際に建てられたものと考えられます。「御休息所前多聞」とも呼ばれています。
松の大廊下跡
江戸城本丸には広大な御殿があり、この場所は「松の大廊下」がありました。襖戸に松と千鳥が描かれた長い畳敷きの廊下で、赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件(元禄14年(1701年)があった場所です。
事件を下敷きにして、「仮名手本忠臣蔵」をはじめ多くの舞台芸能、文学作品、映画、テレビドラマが生まれています。
富 士 見 櫓
「櫓」は、城の隅など重要箇所に造られる防御施設の役割をもった建物です。かつて江戸城には多くの櫓がありましたが、現存する櫓は、富士見櫓、伏見櫓、巽櫓の3つとなりました。
皇居東御苑 案内図
汐 見 坂
徳川家康による江戸城築城の頃は、この場所の近くにまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができたことから「汐見坂」の名が付いたといわれています。
この坂は、本丸と二の丸をつないでいたもので、坂上はには、汐見坂門が設けられています。
諏 訪 の 茶 屋
諏訪の茶屋は、元々、明治45年(1912年)に、皇居内の吹上地区に建てられたものです。
その場所に、江戸時代に諏訪社があったことから、諏訪の茶屋という名前が付いています。
昭和43年(1968年)に現在の場所に移築されました。
諏 訪 の 茶 屋
諏訪の茶屋は、元々、明治45年(1912年)に、皇居内の吹上地区に建てられたものです。
その場所に、江戸時代に諏訪社があったことから、諏訪の茶屋という名前が付いています。
昭和43年(1968年)に現在の場所に移築されました。
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菖 蒲 田
この菖蒲田には、84品種のハナショウブが植えられています。皇居東御苑造成中の昭和41年(1966)に明治神宮御苑の菖蒲田から株を譲り受けて以来、大切に守り育てているものです。
花の見頃:6月上旬~中旬
アヤメの仲間の生育場所の違い
ハナショウブ
ハナショウブは、山野に自生するアヤメ科のノハナショウブをもとに改良された園芸品種です。
品種改良は江戸時代から盛んになり、改良された地域によって、江戸系、肥後系、伊勢系の三系統に大別され、ここには江戸系が植えられています。
🔶江戸系 庭園などで群生の美しさを鑑賞するのに向き、風雨に強く、草丈の高いものが多いです。また、平咲きの花が多いのも特徴で多様な花形が見られます。 | 🔶肥後系 金屏風の前で鑑賞するなど鉢植えに適し、大輪の豪華な花が多いのが特徴です。 | 🔶伊勢系 鉢植え向きで、花弁が垂れ下がり、優美で繊細な花が多いのが特徴です。 |
アヤメ科の植物は、「いずれあやめかかきつばた」というように区別が難しい
ので、その違いを解説します。
アヤメの仲間の見分け方
カキツバタ | ハナショウブ | ノハナショウブ | アヤメ | イチハシ |
花期:5月中旬~下旬 外花被片の中央部に白斑があり、基部は帯黄色 | 花期:5月下旬~6月下旬 外花被片の中央部に淡黄色の細い斑点 | 花期:5月下旬~6月下旬 外花被片の中央部に淡黄色の細い斑点 | 花期:5月上旬~中旬 外花被片の中央 から基部にかけて黄色の網状の模様 | 花期:4月下旬~5月中旬 外花被片の上面中央にとさか状の突起 |
幅が広く、中脈はない | 幅は中位で、中脈が太い | 幅が細く、太い中脈が目立つ | 幅が細く、中脈はあるが目立たない | 幅が広く、中脈は目立たない |
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百 人 番 所
江戸城本丸への道を厳重に守る大手三之門に向き合って設けられた警備詰所です。
甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組という。4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務していました。各組は、20人の与力と、100人の同心で構成されていました。
同 心 番 所
「番所」とは警備詰所のことで、江戸城にあった番所のうち、百人番所、大番所、同心番所の3つが残っています。ここには主として「同心」と呼ばれる武士が詰め、登録者の監視に当たっていました。屋根瓦には、皇室の菊の御紋のあるものや徳川家の葵の紋があるものが見られます。
大 手 門
大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城しまいた。大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止・攻撃し易い構造になっています。
大きい方の門は、昭和20年(1945年)4月の空襲で焼失し、昭和42年(1967年)に復元されました。
焼失前の門の屋根に飾られていた鯱には、頭部に『明暦三丁酉』(1657年)と刻まれています。
この明暦3年には、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火が起きており、鯱は、大火の後、江戸城再建時に製作されたものと考えられます。
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