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ようこそ東松山ウオーク5㎞
11月2日(木)14:00
第40回記念大会日本スリーデーマーチ
箭弓稲荷神社と市内巡り
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松 山 陣 屋 跡
東松山市指定史跡(昭和36年3月8日指定)
幕末における東松山市域の領地は、藩領・旗本領・幕府直轄領として領有され、市域の約半分の領地が川越藩主松平大和守家直克に管理されておりました。
松平大和守家は、寛延二年(1749)の国替えにより、姫路から前橋藩となりましたが、度重なる利根川の氾濫による前橋城の損壊により、明和四年(1767)松平朝矩のとき川越藩に移転しました。
川越藩への移転から100年後の慶応三年(1867)、藩主松平直克のとき、四年の歳月をかけて再建した前橋城に帰城することとなり、武蔵国比企郡を中心に前橋藩の飛び地として、約六万二千石余の領地が残ったため、これらの領地を治める必要から、慶応三年(1867)「松山陣屋」が置かれました。
現在の松葉町一丁目のほぼ全域に渡る大規模なもので、幕末の動乱期を背景として主要施設は、堀と土塁に囲まれた堅牢な構えとなっています。
陣屋は、大政奉還後の明治四年(1871)の廃藩置県により、建設からわずか四年でその役割を終えることになりますが、当地方発展の礎となりました。
藩領はその後、前橋県・群馬県・入間県・熊谷県を経て明治九年(1876)現在の埼玉県に編入されることになります。
平成25年6月 出典:東松山市教育委員会
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梶田隆章先生がノーベル賞を
受賞するまで
1959年、東松山に生まれた梶田隆章先生は、野本小学校、南中学校を卒業されました。
梶田先生は、このころのことを「東松山のゆったりとした環境の中で育ったことに感謝しています」とおっしゃつています。
埼玉県立川越高等学校は、埼玉大学理学部物理学科を卒業した梶田先生は、東京大学院理学系研究科修士課程のときにカミオカンデ計画に参加しました。1986年、博士課程を修了し、東京大学理学部付属素粒子物理国際研究センター助手に就任した梶田先生は「ニュートリノ振動の兆候」に気づき、1998年、東京大学宇宙線研究所助教授のときに「ニュートリノ振動の発見」を発表しました。2008年、東京大学宇宙線研究所長に就任した梶田先生は、2015年、この発見により、ノーベル物理学賞を受賞しました。
梶田隆章先生がノーベル物理学賞を受賞した理由
みなさんは「ニュートリノ」という言葉を知っていますか?
ニュートリノは「素粒子」の仲間です。私たちの身の回りにある部質を細かく分けていくと「原子」というものに行きつき、それをさらによく調べると「クォーク」という小さな粒子で作られていることが分かりました。今のところは、クォークよりも小さな粒子は見つかっておらず、このクォークのようにこれ以上分割することのできない小さな粒子のことを素粒子といいます。
ニュートリノは、ほかの部質とほとんど反応しない幽霊のような粒子です。そんなニュートリノをどうやって観測するのでしょうか?
ニュートリノは、原子の中で働く弱い力に反応します。そこで、ニュートリノ観測装置「スーパーカミオカンデ」では、地下にある大きなタンクの中に超純水と呼ばれる非常に純度の高い水を入れて、ニュートリノを待ち受けています。すると、まれにニュートリノが水の分子にぶつかることがあります。この時に発生する特別な光を捕まえるために、スーパーカミオカンデのタンク内側には、「光電子増倍管」という光センサーが約1万個取り付けられています。
箭 弓 稲 荷 神 社
長元元年(1028年)下総国(千葉県)の城主、前上総介平忠常は、下総に乱をおこし安房・上総・下総を手中に収め、大軍を率いて破竹の勢いで武蔵国へ押し寄せた。
長元3年秋、忠常追討を命ぜられた冷泉院の判官代甲斐守源頼信(多田満仲の子、頼光の弟)は、武蔵国比企郡松山野久ヶ原に本陣を張り、一泊した際に当社にもうで、敵退治の願書を呈し、太刀一振、馬一匹を奉納して一夜祈願した。その晩、白羽の矢のような形をした白雲が起こって敵陣の方へ飛んだ(一説に白狐に乗った神が弓矢を授けた夢を見た)のを見て神様のお告げと感じ、ただちに兵を起こして敵陣に攻めこんだ。忠常の兵は不意の攻撃にねすすべもなく敗れ、三日三晩の戦いで潰滅した。頼信はこれを喜び、がいせの際、立派な社殿を再建し、「箭弓稲荷大名神」と称えたと伝えられている。
現在の社殿は享保3年(1718年)領主島田弾正が社地四町七反余を免除し、四方の信徒を図って建造したといわれている。
明治29年に郷社と定められ、大正十二年には県社に昇格し、衣食住はもとより、商売繁盛、開運の神として広く知られている。
また、境内にはボタン園があり関東随一の名園といわれている。
平成10年3月
出典:東松山市・埼玉県
箭弓稲荷神社境内配置図
御 由 緒
御祭神 宇迦之御魂神(保食神)豊受比賣神
当社の御創建は和銅5年(712年)と伝えられ、規模の雄大さと御社殿の荘厳さと御霊験の灼らたかさ於ては、関東に比なき稲荷大社と称せられ、創立の当時は野久又は矢久稲荷と称せられ里人の信仰の的となっていた。
社記に依れば人皇第68代後一条天皇の御宇長元年下総国(千葉)の城主前上総介平忠常謀反を企て、安房、上総、下総の三ヵ国を切除へ破竹の如き勢いにて威を八州に震い大軍を起して武蔵野国に押出せし時、冷泉院判官代甲斐守源頼信元三年忠常追討の論旨を賜り、当地の野久ヶ原に本陣を張りて当社を尊仰し朝敵退治の願書を呈し、一終夜の御祈願ありてその暁白雲俄かに起りて白羽の箭の如く型取りたる雲あらわれると共に一陣の風颯と吹き立ち敵陣の方へ箭を射る如く飛び行けば頼信神明の感応なりと直ちに敵陣に攻め入れば、忠常の陣中麻の如く乱れ三日三夜追討して潰減せり、頼信御神威を感得、喜悦して直ちに見事なる御社殿を再建建立して箭弓稲荷体明神と称へ奉れりと記され亦後に御社名を箭弓稲荷と呼称す。
又宝徳三年二月の初牛に河肥の左金吾持資主の心願成就の法楽を捧げられ文明年中まで年毎の御祭礼太田道灌により執行せられ、松山城主上田氏、難波田氏も康正年中より、代々の領主達の尊信最も篤く後川越八代の城主松平大和守は、社地を免租して親筆の献額を捧げ、松平家代々の城主当社を宗敬し御分霊を城内及び邸内に奉斎された。
当社の最も隆盛を極めたのは、特に享保年間で庶民の宗敬最も厚く、四方遠近の国々貴賤当社に心願をこめて参籠し、社前市をなし人馬の往来繁く江戸より熊谷西上州、又江戸には「箭弓稲荷江戸講中」日本橋小田原町を中心に江戸市中に及び講中の参拝引きもきらず、樋川、鴻巣、吹上に宿より道中して参拝し「従是箭弓いなり道」道標五十余本ありて当時の隆盛を偲ぶことができる。現在も大小百余講社あり、尚当社は、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全の守護神であるとともに養蚕倍盛、交通案内、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能精進等の神社として信仰を集めております。
*指定文化財*
〇本 殿
当社の本殿は、間口5・43米、奥行5・1米で屋根は切妻、単層三重垂木の銅葺、正面妻梁上の両破風面は、竜、獅子、摸等の彫刻が多く、裏には、仙人が烏鷺(囲碁)を楽しんでいる彫刻がある。
内部の各桝組は、極彩色の花卉模様が散りばめられており、正面の扉、柱及び欄間には極彩色の花鳥の彫刻がある。
床面には朱塗りで全体が日光廟を小さくした感じである。
〇絵 馬
数多い絵馬のうち次の八点が指定されている。「呉服店」「馬上の中国武人」「関羽と張飛」「俵藤太秀郷」「牛若丸と弁慶」「予譲の仇討」「文人机に寄り」「武人と騎馬武者」の題名でいづれも大型の絵馬である。
本殿縁の下持送り彫刻
水犀
水犀は、日本の霊獣で、その体形は鹿に、背中には亀の甲羅を背負い、頭には一角を持ち、細い足には蹄が付いています。これは、水犀の名が示す通り、火災除けの彫刻です。
本殿花頭窓彫刻
二龍
そもそも、龍には、人民救済、雨乞い、魔除け、鎮火などのご利益があります。当社では二匹の龍が本殿両脇に位置し、ご参拝の方にご利益をもたらすべく、本殿を守護しております。
宇迦之魂社御由緒
通称 穴宮稲荷・団十郎稲荷
御祭神 宇迦之魂神
社記に依れば「穴宮は当社眷属の穴居なるを以て俗に称す」とあります。
団十郎稲荷は、文政三年(1820)の秋七代目市川団十郎が特に当社を信仰し芸道精進の大願成就の心願を御祈願し、その当時の江戸の柳盛座の新春歌舞伎興行において、「葛の葉」「狐忠信」等の段が素晴らしく演じられ毎日札止めの大盛況で目出度く終演したことは、一重に大神様のご加護のお陰であるとして、御礼に文政四年(1821)仲秋に石造りの
御神祠を建立されました。
それ以来、役者衆の参拝や花柳界・水商売・一般の方々の信仰厚く、芸能向上・商売繁昌の守護神として広く崇敬されています。
平成2年4月1日
出典:箭弓稲荷神社社務所
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