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2017年12月度JWAのウオーキング教室
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重要文化財
旧江戸城清水門
昭和36年6月7日指定
江戸城は、長禄元年(1457)に太田資長(道灌)によって創られたとされる。
天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄
元年(1592)から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607)に天守閣が、寛永13年(1636)に総構が完成し、大城郭としての形が整えられた。その後、明暦3年(1657)をはじめ、数度の大火に見舞われものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。
清水門は、北の丸北東部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門からなる。
門の創建年代は明らかではないが、現在の門は高麗門の扉釣金具の残る刻銘から万治元年(1658)に建てられたものであると考えられている。しかし、櫓門の上部は、時期は不明ながら撤去されていたものを昭和36~41年度の修理で復旧整備したものである。清水門は、建立年代の判明する江戸城の遺構として高い価値を有しており、門から北の丸に至る石段とともに江戸時代の状況を色濃く残している。
清水門 櫓門内部
吉 田 茂 像
古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉
昭和五十六年九月
舟越保武 作
安岡正篤 文
桑原翠邦 書
北の丸公園露場
ここでは、気温、湿度、気圧、降水量、感雨(降水の有無)、積雪の深さを観測します。
このような気象観測を行う場所を露場と呼びます。
重要な気象観測を行っていますので、許可なくこの中に入らないで下さい。
出典:東京管区気象台
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日本武道館
東京都千代田区北の丸公園2-3にある武道館。日本伝統の武道を普及奨励し、心身錬磨の大道場としての役割を担うことを設立趣旨とする。日本武道協議会加盟。武道以外の屋内競技場、多目的ホールとしても利用される。管理運営者は公益財団法人日本武道館。単に「武道館」といえば一般的に当館の事を指す。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北の丸公園案内図
江戸城 田安門
田安門(たやすもん)は、東京都千代田区北の丸公園内にある、旧江戸城の門。北面する高麗門と西側に矩折りに位置する櫓門からなる桝形門である。1961年(昭和36年)に「旧江戸城田安門」として国の重要文化財(建造物)に指定されている。
「江戸城は、1457年(長禄元年)に太田資長(道灌)によって創られたとされる。1590年(天正18年)、徳川家康の居城となり、1592年(文禄元年)から大規模な改修が行われ、1607年(慶長12年)に天守閣が、1636年(寛永13年)に総構が完成し、大城郭としての形がととのえられた。その後、1657年(明暦3年)をはじめ、幾度かの大火に見舞われたが、城郭の規模は幕末まで維持された」
「高麗門の扉の釣金具には、製作に携わったと思われる職人の名文が見受けられる」
ソース: 田安門 – https://ja.wikipedia.org
靖国神社
靖国神社(正式表記:靖國神社、やすくにじんじゃ)は、東京都千代田区九段北にある神社である。明治天皇の意向によって建てられた招魂社に起源を発し、国家のために殉難した人の霊(英霊)246万6千余柱を祀る。全国にある護国神社と深い関わりがある。
ソース: 靖国神社 – https://ja.wikipedia.org
在日フィリピン共和国大使館
駐日フィリピン大使館(英語: Philippine Embassy in Japan / Embassy of the Philippines in Japan)は、フィリピンが日本の首都東京に設置している大使館である。在東京フィリピン大使館(英語: Philippine Embassy in Tokyo / Embassy of the Philippines in Tokyo)とも。
ソース: 在日フィリピン共和国大使館 – https://ja.wikipedia.org
二 合 半 坂
江戸時代、この坂の上からは日光山の半分を眺めることができました。
富士山の高さを一合~十号と数えますが、この坂から見える日光山は富士山の約半分、すなわち五合の高さでした。
五合の日光山のさらに半分で、二合半坂と名付けられたといわれています。
江戸時代はこの坂の両側には旗本屋敷が建ち並んでいましたが、明治時代には、坂の東側に英語教育家として知られる神田乃武の邸宅が、西側に和洋裁縫女学院(現在の和洋女子大学)がありました。
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赤城神社 (新宿区)
祭神
岩筒雄命と、相殿として赤城姫命(あかぎひめのみこと)を祀る。
岩筒雄命は火の神である迦具土神より生まれ、経津主神の親神にあたるという。赤城姫命は一説によると神社を創建した大胡氏の息女と伝わり、別当寺である東覚寺の本地仏であった。
由緒
鎌倉時代の正安2年(1300年)、上野国赤城山の麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治により、牛込早稲田の田島村に創建されたと伝わる 。文安元年(1444年)には、大般若経が奉納された。
寛正元年(1460年)、江戸城を築城した太田道灌により牛込台に移された。その後、弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔により現在地に移される。江戸時代には徳川幕府によって江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めた。
『江戸名所図会』では「赤城明神社」として紹介され、大胡重泰(おおごしげやす)により創建されたこと、牛込の鎮守であり別当寺は東覚寺(天台宗)であることなどが記されている。
ソース: 赤城神社 (新宿区) – https://ja.wikipedia.org
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寺内公園の由来
この「寺内公園」の一帯は、鎌倉時代の末から「行元寺」という寺が置かれていました。
御本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。
寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」があり、3代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、兵庫町の肴屋が肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになりました。
江戸中期の天明8年(1788)、境内の東側が武家の住まいとして貸し出されるようになりました。
この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。
安政4年(1857)頃、この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。
明治4年(1871)には、行元寺と肴町を合わせて町名「牛込肴町」となりました。(昭和26年からは「神楽坂5丁目」になっています。)
行元寺は、明治40年(1907)の区画整理の際、品川区西五反田に移転し、大正元年(1912)に大久保通りができました。
地元では、行元寺の跡地を「寺内」と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、昆沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。
文豪、夏目漱石の「硝子戸の中」大正4年作(1915)には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた若き漱石の神楽坂での思い出話がでてきます。
また、喜劇王・柳家金語楼と歌手・山下敬二郎の親子や、女優・花柳小菊、俳優・勝新太郎、芸者歌手・神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。
このように多くの芸能人や文士に愛された「寺内」でもありました。
日本経済のバブル崩壊後、この一帯は地上げをうけましたが、その後の高層マンション建設に伴って、区道が付け替えられ、この公園ができることになりました。
公園内には、地域の人たちのまちへの思いやアイデアが多く盛り込まれています。
いつまでも忘れることのない歴史と由緒あるこの地の思い出をこの「寺内公園」に託し、末永く皆様の思い出の場として大切に護り育てましょう。
平成15年3月吉日
出典:新宿区
桜の標本木
この桜(ソメイヨシノ)は、
東京管区気象台が開花を
観測するため指定した
「標本木」です。
靖國神社社務所
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