第185回 ウィークデーウォーク 江戸の事件帳『決闘・仇討ち』
八丁堀(桜川)跡
八丁堀四丁目
所在地中央区 地域
新富・入船・湊の各一丁目
江戸時代初期、京橋川の下流から隅田川へと流れ込む通船のための水路が開削され、この掘割を「八丁堀」と称していました。
八丁堀の開削年や名称の由来には諸説ありますが『京橋区史』には、南八丁堀一丁目と本八丁堀一丁目の間より東流し、桜橋、中ノ橋、稲荷橋を過ぎ亀島川に会いして海に入る。慶長17年(1612)に漕運の利を謀りこれを鑿つ、当時海口より凡そ八丁(約870メートル)なるを以ってこの名ありと書かれています。
なお、地域名としての八丁堀は、堀を境に北側の地域一帯を本八丁堀(北八丁堀)、南側の河岸地一帯を南八丁堀と称し、広範囲にわたっていました。
通船堀としての八丁堀は、明治になって「桜川」と改称され、関東大地震後の復興事業を経て新桜橋・中ノ橋・八丁堀橋・稲荷橋が架けられました。
昭和35年から昭和41年頃には、中ノ橋から稲荷橋までを残して桜川の上流が埋め立てられ、その後、桜川は完全に埋め立てられました。
埋立地の一部は、桜川公園として整備され、この辺りに掘割があったことをしのばせています。
平成17年3月
出典:中央区教育委員会
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桜 川 公 園
元々あった「桜川」は、かつて長さ八町の堀がだったことから八丁堀の地名の由来ともなりました。
今では女性センターやポンプ場など中央区の施設が集まる場所へ。公園の片隅には「入一地蔵菩薩」という名の地蔵があります。 3体のうち、1体は川を埋め立てる際に川底から本当に出てきたといわれています。隣にある「むしば祈祷石」は乳歯の抜けた小学生がそれを持って参拝しに来ます。
出典:BS TV TOKYO Corporation
堀部安兵衛武庸之碑
越後新発田五萬石溝口藩中山弥次右衛門の子寛文十一年生れ。
元禄元年江戸之念汽堀内道場へ入門元禄四年玉木一刀齋道場師範元禄七年二月高田の馬場に於て叔父菅野六郎左右衛門之仇討其の後も京橋水谷町儒者細井次郎大夫家に居住浅野家臣堀部家の妙と結婚堀部安兵衛武庸となる禄高二百石元禄十四年十月本所林町に於て長江左衛門の名で剣道指南元禄十五年十二月十四日赤穂義士の一人として吉良邸に乱入仇討す。
元禄十六年二月四日歿三十四歳
法名 刀雲輝剣信士
いちこくばし(一石橋)
橋の歴史
江戸時代初期の「武州豊島郡江戸庄図」に既に元となる木橋の記載が見られる。
北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建された。そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わる。またそのまま「後藤橋」とも呼ばれていた。江戸期を通して神田地区と日本橋地区を結ぶ重要な橋であった。
木橋としては1873年(明治6年)の架け替えが最後で、当時の記録には橋長十四間、幅員三間とある。1922年(大正11年)6月に東京市道路局によって花崗岩張りのRCアーチ橋として改架された。橋長43 m、幅員27 mで親柱は4本、袖柱は8本。中央部には市電を通す構造で、翌1923年(大正12年)9月の関東大震災にも耐え抜いた。
1963年(昭和38年)12月に首都高速都心環状線の京橋出入口〜呉服橋出入口間が開通した際に、下流側橋詰に呉服橋出入口を設置するために親柱2本を撤去、さらに1973年(昭和48年)には鈑桁橋に改修される際に袖柱4本も撤去、上流側に親柱2本が残るのみとなってしまう。
さらに老朽化と拡幅のために1997年(平成9年)の大改修時に撤去となるところであったが、関東大震災以前のRCアーチ橋のものとしては、都内最古の親柱として貴重な近代文化遺産であることが認められ、2002年(平成14年)に南詰下流側の親柱1本を中央区が区民有形文化財建造物に指定し、保存されることとなった。
ソース: 一石橋 – https://ja.wikipedia.org
大隈重信侯 雉子橋邸跡
早稲田大学の創立者、大隈重信(1838-1922)は、明治新政府に出仕し、大蔵卿等を歴任し、日本国「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎創りに貢献しました。
大隈重信は、1876(明治9)年10月から1884(明治17)年3月まで、雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。
2007(平成19)年10月
出典: 早稲田大学
千代田稲門会
江戸幕府蔵屋敷の礎石
江戸幕府清水門前のこの場所は、将軍直属家臣の居住地や蔵・馬場、厩といった江戸城付属の施設が置かれました。
平成16年の遺跡発掘調査では、近世初頭に水田地帯を埋め立てて屋敷を築いたことがわかりました。ここに設置した石は、敷地南半に広がる米蔵の礎石の一部で、配置は出土状態を再現しています。
礎石の配列から、二棟の東西に長い建物で、明暦の大火(1657年)で焼失したと考えられます。礎石のうち、大きな石材は柱や壁を支え。
小さな石材は床を支える基礎と考えられます。
大隈重信邸跡
近代になるとこの地は、明治政府の厩が置かれましたが、明治9年には二度の総理に就任し、早稲田大学を創設するなど多方面に活躍した大隈重信が邸宅を構えます。
その後、フランス公使館、憲兵練習場、国営竹平住宅を経て現代を迎えます。
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東京大神宮
御祭神
天照皇大神・豊受大神を主祭神とする。天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神・倭比売命を相殿に祀る。
歴史
明治5年(1872年)に開設された神宮司庁東京出張所(伊勢神宮の事務機関である神宮司庁と、東京の教部省との連絡のための出張所)には、明治天皇の勅裁を仰ぎ伊勢神宮の分霊が祀られていた。翌年、その構内に東京神宮教会(伊勢神宮の教導機関である神宮教院の東京支部)が開設された。
両所にあった神殿を継承して、明治13年(1880年)4月17日、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大神宮遙拝殿が当社の起源である。
これは、当時の明治政府が目指していた祭政一致・大教宣布の一環として作られたものであった。
本神社落成時、通りを隔てて中山忠能邸があり、前年12月7日より明宮(はるのみや)嘉仁(よしひと)親王(明治天皇第三皇子、後の大正天皇)が生活していた。
4月25日、明宮親王(当時2歳)は中山忠能・中山慶子(明治天皇生母)・正親町実徳・柳原愛子(明宮親王生母)等と共に日比谷皇大神宮を私的に参拝した。
なお中山忠能邸には、病弱だった明宮親王の健康を祈り、出雲大社より大国主の分霊も祀られていた。
明治15年(1882年)1月、明治政府の方針転換により神社と宗教活動は分離することとなり、伊勢神宮でも神宮司庁と神宮教院を分離することとなった。皇大神宮遙拝殿は神宮教院に属することになった。同年5月、神宮教院が神道神宮派に改称する際に、当社も大神宮祠と改称した。
一般には、所在地名から日比谷大神宮や、日比谷皇大神宮と呼ばれていた。
明治18年(1885年)3月23日、明宮親王(7歳)は有楽町の中山忠能邸から赤坂御用地青山御用邸内に新造された明宮御殿(花御殿)に移転した。その後も幾度か中山忠能邸を訪問したが、そのたびに日比谷皇大神宮に参拝している。
明治32年(1899年)9月、神道神宮派が解散して新たに神宮奉斎会が作られ、当社は神宮奉斎会本院と改称し、神宮奉斎会の本部機関となった。尚、三重県宇治山田市(現・伊勢市)には神宮教院大本部が置かれていた。大正12年(1923年)の関東大震災で社殿を焼失する。昭和3年(1928年)、現在地に再建・遷座して、以降は飯田橋大神宮と呼ばれるようになった。上述のように、第二次大戦以前は神社という形ではなかったので、社格の指定はない。ゆえに氏子地域も存在しない(当社所在地は築土神社の氏子地域にあたる。)。
第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)4月、宗教法人東京大神宮として再発足した。
「日比谷大神宮での結婚式」
日比谷大神宮は明治13年(1880)、有楽町の大隈重信邸跡に落成した、皇大神宮遙拝殿を起源とする。32年(1899)、神宮奉齋会本院と改称。神前結婚式の創設と普及活動を行い、現在の「神前式」の基礎を築いた。関東大震災後は飯田橋大神宮とも呼ばれ、戦後は宗教法人東京大神宮として再発足した。「日比谷大神宮の御神前にて結婚之式を挙る追々に行る是も東京名物之一なるべし」と記載あり。屠蘇飾り(雄蝶と雌蝶の折紙)の絵あり。「東京市麹町區有樂町三丁目2番地 神宮奉齋會本院」 と記された紙片が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「日比谷大神宮での結婚式」より抜粋”
ソース: 東京大神宮 – https://ja.wikipedia.org
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浄 瑠 璃 坂
坂名の由来については、あやつり浄瑠璃が行われたため(『柴の一本』)、かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(『再校江戸砂子』)、などの諸説がある。
江戸時代、坂周辺は武家地であった。この一帯で寛文12年(1672)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ、江戸時代の三大仇討の一つとして有名である。
新宿区指定史跡
浄瑠璃坂の仇討跡
所 在 地 新宿区市谷鷹匠町瑠璃坂上・鼠坂上
指定年月日 昭和60年11月1日
浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日、「赤穂事件」、「伊賀越えの仇討」(鍵屋の辻の決闘)とともに、江戸時代の三大仇討のひとつと呼ばれる「浄瑠璃坂の仇討」が行われた場所である。
事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月死去した宇都宮藩主奥平忠昌の法要で、家老の奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前から口論となっていた主君の戒名の呼び方をめぐり刃傷におよび、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
源八は、縁者の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文12年(1672)2月3日未明、牛込鷹匠町の戸田七之助邸内に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討入り、牛込見附門付近で隼人を討取った。
源八らは、大老井伊掃部守直澄へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり、六年後許されて全員井伊家ほかに召し抱えられた。
平成28年12月2日
出典:新宿区教育委員会
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