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2018越後長岡ツーデーマーチ
山古志&信濃川ウオーク
2日目信濃川ウオーク
正三尺玉及び二尺玉打場筒
ここに設置する正三尺玉及び二尺玉打場筒は、大正15(1926)年9月に製作され、以来70有余年間のわたり役目を果たし、平成12(2000)年7月に保存のために撤去されたものです。
長岡市の誇る花火大会の貴重な遺産として、また、長岡鉄工業の記念物として末永く市民に愛されることを願うものです。
平成14年㋂
出典:長 岡 市
長岡技術者協会
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シティホールプラザ アオーレ長岡
平成30年9月9に
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フェニックス大橋
フェニックス大橋は、新潟県長岡市の信濃川と渋海川に架かる国道404号の道路橋梁。
長岡市の都市計画道路ならびに地域高規格道路「長岡東西道路」の区間として建設が進められ、長岡市の信濃川に架かる道路橋梁として大手大橋以来28年ぶりに2013年(平成25年)11月24日に開通した。
ソース: フェニックス大橋 – https://ja.wikipedia.org
信濃川 長生橋
長生橋は、新潟県長岡市の信濃川に架かる国道351号(重複:国道403号・国道404号)のトラス橋。 長岡市の川東地域と川西地域を連絡し、ランドマークの1つにも数えられる橋梁である。 1937年(昭和12年)に竣工した3代目となる現在の橋梁は、橋長850.8 m、幅員7
ソース: 信濃川 長生橋 – https://ja.wikipedia.org
流 域 紀 行
新潟県には、20年ほど前からいく度も行っている。その最初に行った時、列車でうとうとと居ねむっていて、ふと目をさますと、窓外に大きな川の姿が見えた。
「ああ美しい。何という川だろう」
とつぶやいた。水量といい、日の光をはじき返している河原の砂といい、岸の草木といい、何ともいえずつややかで、光りかがやく美しさと豊かさを持っていたのである。
「これは信濃川ですよ」
と、乗客のひとりが教えてくれた。
やはりそうかと思った。そうにちがいないと思うものが心の底にあったのである。
たびたび行くうちに、この場所がどこであるか、ほぼわかった。長岡にさしかかるあたりである。ぼくは歌を詠んだ。
大ひろ野 流るる川の信濃川 ゆたかなるかも 美しきかも
ぼくは北海道の宗谷岬から鹿児島の南端に至るまで、大河といわれるほどの川は先ず全部見ているつもりだが、この川はどの川にも似ていない。豊かで、堂々として、美しいのである。
日本で川の王者をえらぶとすれば、この川のほかにはあるまい。
出典:海音寺湖五郎
水道公園周辺石碑 信濃川 信濃川よ 静かなるながれを見れば かぎりなく想ひわくかな 水くぐり 白洲にまろび 草笛を吹きて遊びしところ 夏の日の 青萱の挟莛につつみて 精霊のながししところ 石まろき沈床のうへに ながながと落日のひかりさすとき 石のごと われも黙しき ああ われはつねにながれとあり ながれはつねにわれとありけり みはるかす 山山よ 弥彦よ 苗場よ 黒姫よ はるかなる ひかりこそさすらへ この岸に いくたびか友とかたり いくたびか若き夢見つ ああ 若草の道や落葉の道 遠つ日の光ほのかなれど いまもなほ水はながれつつあり 出典:星野慎一 「郷愁」
縄文 火焔土器
われわれが古い歴史をさかのぼって過去の姿をたしかめる情熱言いようのない熱気である。自分たちが日本人として、人間としてどうあったか、現在どうあるべきなのか。・・・・・そういう、生きる意味をそこにつきつけられる思いがするからだ。
縄文土器。これを見たとき、心がひっくりかえる思いだった。
人間生命の根源。その神秘を凝集し、つきつけた凄み。
私はかってこんなふうに圧倒的な美観にぶつかったことはなかった。全身が、“ぶるぶる”ふるえあがった。
出典:岡本太郎
寄贈 長岡悠久ライオンズクラブ
認証25周年記念事業 1987年1月
縄文 火焔土器について
信濃川の河岸段丘には縄文人(いまから2千年~1万2千年前)の集落が点在して数多くの土器が発見されています。その多くは口辺に焔のゆらめく造型があり所謂縄文火焔土器として有名です。ここに展示されたものはそのひとつの模型です。原型は昭和11年当市の西部、馬高丘陵から近藤篤三郎氏の手によって発掘されたものです。―現在長岡市所蔵―その造形美は剛壮絢爛、縄文人の永遠の若さと気迫を漲らせ日本を代表する世界に誇る縄文式土器で「火焔土器A式1号」と命名されています。
はじめてこの土器を見られたらその奇怪さにドキッとしてしまうでしょう。平底の器の口辺にあらゆるエネルギーが集中して、はげしく波うつ曲線(隆線紋)は、はてしなくからみ合い迷宮のようにいりくんで、ポッカリと空調に吸いこまれたかと思うと高く空間にもえあがり、強烈な生命力と限りない幻想の饗宴をくりひろげます。狩猟を日常の糧とした縄文人は自然との対決の瞬間々々を最も純粋に生きた運命の起伏がこの土器の激しい気配のなかに、きざみつけられているような気がします。
縄文土器にふれて、自分のうちに秘められた情熱、エネルギーを再発見するならば、それはただ古い過去の遺物だけではすまされない。この4500年前の土器を見て、われわれが日本人として、人間として生きる意味を発見するならば、この偉大な先人の遺産も、まことに現代的意義をもって、われわれに迫るものがあります。
尚、この展示にあたり碑文をいただいた岡本太郎先生・文献の提供をうけた㈱学研殿に謝意を表します。“長岡悠久ライオンズクラブ”
長岡の縄文遺跡
馬高遺跡―市街地から車でおよそ20分。信濃川を渡り国道8号戦線を、関越自動車道インターを過ぎ、なだらかな丘陵のなかにこの火焔土器の出土地馬高遺跡(国指定)があります。市内関原町
藤橋遺跡―信濃川の左岸段丘には数多くの縄文遺跡があり、その代表的なものに藤橋遺跡があります。―市内西津町字原、
長岡技術科学大学前(国指定史跡)
「火焔土器」
展示場―長岡市馬高縄文館―長岡市関原1丁目3060‐1
℡0258-46-0601
「長岡城」の駅
江戸時代、この長岡駅を中心に、長岡城がありました。本丸の西側に二の丸、東側に詰ノ丸、これらの西、北、南の三方を守るように、三ノ丸が囲んだ平城でした。
慶長10年(1605)ころ、堀直竒が築城をはじめ、牧野忠成がひきついて完成させました。本丸には「御三階」と称する櫓があり、ほかにも十二の櫓十七の城門がありました。
その長岡城は、戊辰戦争で焼失して、明治三十一年(1898)には、城跡に鉄道が敷かれ、長岡駅ができました。このように、駅が城跡に建てられている例は、全国的にもめずらしいものです。
出典:長岡市
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