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大隈重信侯 雉子橋邸跡
早稲田大学の創立者、大隈重信(1838-1922)は、明治新政府に出仕し、大蔵卿等を歴任し、日本国「円」の創設に尽力しました。また内閣総理大臣を二度にわたり務め、近代国家の基礎創りに貢献しました。
大隈重信は、1876(明治9)年10月から1884(明治17)年3月まで、雉子橋邸宅(当時の麹町区飯田町1丁目1番地)に住み、1882(明治15)年10月創立の早稲田大学の前身、東京専門学校の開校事務もこの邸宅で行いました。
2007(平成19)年10月
出典: 早稲田大学
千代田稲門会
旧江戸城 外桜田門
重要文化財(建造物)指定昭和36年6月7日
現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。
外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外桝形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(320坪)。建築されたのは寛永年間(1624~44)とされ、現存する門は寛文3年(1663)に再建された門がもとになっています。大正12年(1923)の関東大震災で破損し、復元されました。
万延元年(1860)3月3日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。
皇居外苑の見所1
●和田倉噴水公園
昭和36年に、今上天皇陛下のご成婚を記念して造られた大噴水を、皇太子殿下のご成婚を期に平成7年に再整備したものです。
周辺で働く人々の憩いのな場としても、親しまれています。
●楠正成公銅像
楠正成公は、今から700年ほど前の南北朝の時代に活躍した忠臣として名高い武将です。
本体の高さが4メートルあるこの銅像は、明治33年に住友家により寄贈されました。
皇居外苑の見所2
●二重橋
一般的には、皇居前広場から正門を経て宮殿へいたる濠に架かっている、「正門石橋」と「正門鉄橋」の総称です。厳密には奥のほうの橋を指します。
●桜田門
万延元年(1860年)、江戸幕府の大老井伊直弼が暗殺された事件の門で著名な門です。
現在の門は、関東大震災で破損したものを改修しています。
皇居外苑の見所3
●千鳥ヶ淵
上から見た時の姿が千鳥に似ていることから、この名がつけられたといわれています。
岸辺で咲く四季折々の花が、訪れる人を楽しませてくれます。
●田安門(国重要文化財)
江戸城の北部・田安台と呼ばれた場所に位置し、現存する門の中では最古のものです。寛永13年(1636年)の再建です。
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百 人 番 所
江戸城本丸への道を厳重に守る大手三之門に向き合って設けられた警備詰所です。
甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組という。4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務していました。各組は、20人の与力と、100人の同心で構成されていました。
二の丸雑木林
武蔵野の代表的な風景である雑木林は、下草や落葉は毎年肥料として集められ、木は20年ごとに燃料用に伐採されるなど、人間生活との深い関わりにより形成されていました。二の丸雑木林は、コナラ、クヌギはどの落葉樹の林が保たれ、チゴユリなどの春植物(樹木の葉が開く前の林内が明るいうちに葉を広げ、花を咲かせる植物)をはじめ、多様な生物が生息・生育できる林となっています。
武蔵野の面影を持つ雑木林
この雑木林は、昭和天皇のご発意により、武蔵野の面影を持つ樹林として、昭和57年から60年にかけて整備されたものです。
樹木や野鳥を始め、鳥や昆虫等も楽しめる、自然の林として大切に育てております。
植物を痛めないように、樹林地内への立入りはご遠慮ねがいます。
皇居東御苑 案内図
平 川 門
大手門が正門であるのに対して、この門は、御殿に勤めていた奥女中などの通用門として使用されていました。大手門と同様、厳重な防御の構造になっています。また、城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたといわれています。小さな脇門は、平川豪の中に伸びた、「帯曲輪」と呼ばれる細長い渡り堤につながっています。
内神田一丁目
江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました、徳川家康は、江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用されました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。
神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。
明治5年(1872)、いったん美土代町となりますが、空き地の状態は第二次世界大戦後まで続きました。そして昭和41年(1966)、内神田一丁目に編入されました。
昭和58年(1983)、神田橋土木詰所の敷地となっていたこの場所に、内神田住宅が完成すると90世帯が住むようになり、平成5年(1993)、千代田区のもっとも新しい町会として、内神田住宅町会が誕生しましら。さらに平成16年(2004)、町会名は神田橋町会と変わりました。
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