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第41回日本スリーデーマーチ
1日目 11/2金曜日
和紙の里・武蔵嵐山ルート20㎞
国指定史跡比企城館跡群
菅 谷 館 跡
①本 郭 ②二ノ郭 ③三ノ郭 ④西ノ郭 ⑤南 郭
⑥搦手門跡 ⑦正坫門跡 ⑧埼玉県立嵐山史跡の博物館
⑨畠山重忠像 ⑩復元木橋 □土塁 □堀 〇案内板 〇説明版
☆模 型 □水飲場 🚻トイレ 🏠あずまや
出典:埼玉県教育委員会
国立女性教育会館
独立行政法人国立女性教育会館は、「独立行政法人国立女性教育会館法」で規定される文部科学省所管の独立行政法人である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
唐子中央公園
唐子市民活動センター(旧唐子公民館)の南側につくられた公園で、体育館、多目的広場、子供広場等が整備されており、広々とした公園です。
出典:東松山市役所 都市整備部 都市計画課
青 鳥 城 跡
築城の年代は現在不明であるが、『太田道灌状』には文明12年(1478年)に、扇谷上杉定正と太田道灌が青鳥に在陣したという記述があり、この頃には城(あるいは城の原型となるもの)はあったと推定されている。
1560年代前半の松山城の攻防戦では、北条氏康方の城として機能したと思われる。なお、永禄2年(1559年)に成立した『小田原衆所領役帳』には狩野介が比企郡青鳥に、久米新左衛門が松山筋石橋にいたとしており、この頃の城主はこの二人のうちのどちらかであると考えられている。
その後、廃城になる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐において豊臣氏方の前田利家・上杉景勝らが後北条氏方の松山城を攻める際、前田利家は廃城となっていた青鳥城跡に陣を置いた。
近年、青鳥城が廃城になったのは16世紀後半ではなく、16世紀前半とする説が現れた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
虎 御 石
この虎御石は、高さ375cm・幅70~77cm、厚さ14cm、比企・入間地方最大の板石塔婆です。鋭い三角形の山形、深い溝の二条線、区画された額部の上面に荘厳体の胎蔵界大日如来を表わす種子(アーンク)が力強く彫られています。種子の下には、深く雄渾な蓮弁が刻まれています。
蓮座の下には四行の真言偈文、さらに三行の銘文が刻まれています。「応安二己酉卯月」とあることから、虎御石は応安二年(1369年)に建立されたものです』
出典:東松山市教育委員会
忘れ去りたくないもの
この付近には、鎌倉時代からの南北朝のころに造られたと考えられる青島城があります。戦国時代にも使われていたといわれています。この沼は、その内堀のなごりです。
現在、城跡は畑や民家、雑木林となっていて、そのおもかげはほとんど知ることができません。
この堀跡は、おため池とよばれています。上下2つに仕切られていますが、その上手の池の岸には、カラムという植物がたくさん生えています。
大きな葉を持つ草で、昔、この草の茎の皮から繊維をとって、布を作ったとされています。あまり目立たない地味な花がさきますが、今では、人にとってはほとんど何の価値もないように思われます。
ところが、この草は、アカタテハにとってたいせつな食草なのです。この草がなくなると、このチョウは繁殖ができなくなってしまうのです。
人にとって何でもない自然であっても、生きものは複雑にからみ合った関係にあって、それぞれが欠かせない役割りを持つています。
そまつにしないようにしましょう。
クリ | コナラ | スギ |
ヌルデ | クヌギ | シラカシ |
この付近で見られる雑木林の木。
アカタテハ | カラムシ |
アカタテハの幼虫は、カラムシの葉を2ツ折りにして巣を作り、やがてこの中でサナギになります。
★ゴミは捨てずに持ち帰りましょう。
出典:東松山市・埼玉県環境庁
箭弓稲荷神社 (東松山市)
712年(和銅5年)の創建と伝えられる。その頃は小さな祠だったようだが、1030年(長元3年)に下総国の城主平忠常の討伐に出かけた源頼信がこの周辺に一泊した際に、近くにあった野久稲荷神社に詣でて、太刀一振と馬一頭を奉納すると、その夜に白羽の矢のような形をした雲が敵陣の方へ飛んでいくのを目撃し、これは神のお告げだと確信、直ちに敵陣に攻め込んだ頼信は快勝し、立派な社殿を建造し「箭弓稲荷大明神」とたたえたと伝えられる。以来、松山城主、川越城主などの庇護を受けた。
社名の由来については、1028年(長元元年)に下総国の平忠常が謀反を企て安房・上総・下総の三カ国を制圧し、大軍をもって武蔵国に侵攻した(平忠常の乱)。これを受けて源氏の棟梁源満仲(多田満仲)の子であり、甲斐国守を勤める源頼信は、忠常追討の綸旨を賜り、鎮圧に向かった。しかし、多勢に無勢、武勇の頼信も心を悩ませた。その時、頼信が布陣する松山本陣近くで古い祠を見つけた。問えば、野久原に鎮まる「野久稲荷大明神」で、本地は「十一面観世音」であるという。
これを聞いた頼信は、野久はすなわち箭弓(矢弓)の意で、武門の守護神であると、大いに奮い立ち、神前に怨敵退散の願書、太刀一振、駿馬一頭を奉納し、ついに忠常を撃退することができた。一説には、白狐に乗った神が弓矢を授けたと伝える。この神恩に報いるため、社殿を再建した。以来、野久稲荷は、箭弓稲荷と号せられるようになった。
同形の物語としては、さかのぼること791年(延暦10年)坂上田村麻呂が箭弓稲荷より南西約4kmにある岩殿観音付近の雪見峠(東松山市大字岩殿字雪見峠付近と思われる)の悪竜を退治する際に、老人の姿の神が矢を授けたとの言い伝えがある。
一方で関連する寺院として、福聚寺の草創については次のようにある。当社は中世の兵乱により衰微し、野中の小社となり、近くの庵主が神前に一灯を供ずるのみになっていた。1617年(元和3年)、天海僧正が駿府から下野国へ神輿(二度葬される途中の家康と思われる)を守護し、当地松山宿を通行した折、大雨に見舞われたため、当社の宮守りをしていた庵主の草室に神輿を納めた。すると、忽然と弓箭を携えた翁が示現した。天海僧正が何者かと問えば「人にあらず、稲魂の神使なり、僧正守護する神輿の御先を掃仕して非常を静める役を、この松山野久の地に勤めん」と告げた。これを聞いた僧正は、庵主に翁の御告を伝えて当社の由来を聞き、箭弓稲荷大神を尊崇して社殿を造営した。この折、僧正は訪れた庵を一寺に取り立てて福聚寺という寺号を与え、庵主を別当職に補任した。 『新編武蔵風土記稿』には「享保中より殊に威徳著しく諸人信仰するもの多し 今の如く市店旅宿門前に並へるは彼頃よりのことなり」とある。
明治初年、神仏分離により福聚寺は別当から離れることとなった。(福聚寺は今も東松山市本町に存在している(市立図書館から沼をはさんだ反対側))
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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