[googlemaps https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m68!1m12!1m3!1d12925.207124604502!2d139.48077067871358!3d35.915112632244494!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!4m53!3e2!4m5!1s0x6018da575808cc79%3A0x46e1f1b1293bb4be!2z44Kv44Os44Ki44OR44O844Kv!3m2!1d35.9105707!2d139.4828805!4m3!3m2!1d35.9164713!2d139.484321!4m5!1s0x6018da618c4167fb%3A0x27f2920eda13c433!2z5LiA55Wq6KGXIOiUtemAoOOCiuOBrueUuuS4puOBvw!3m2!1d35.9231501!2d139.4828699!4m5!1s0x6018da8a6f630361%3A0xa9b0ddde6042517f!2z5bed6LaK5Z-OIOS4reODjumWgOWggOi3oQ!3m2!1d35.9245199!2d139.4882244!4m5!1s0x6018da8b69dd49c7%3A0xad133593c69f3bf1!2z5bed6LaK5Z-OIOacrOS4uOW-oeauvw!3m2!1d35.9243981!2d139.49150369999998!4m5!1s0x6018da8ca3780a95%3A0xd09b45e1c0579c24!2z5Yid6ZuB5YWs5ZyS!3m2!1d35.923574699999996!2d139.4927401!4m5!1s0x6018daf67650773b%3A0xeb0ba29520bb6eb5!2z5bed6LaK5aSn5birIOWWnOWkmumZog!3m2!1d35.917527!2d139.488999!4m5!1s0x6018db01f903c9c5%3A0xfd2f8659e8a2dbb8!2z5LuZ5rOi5rKz5bK45Y-y6Leh5YWs5ZyS!3m2!1d35.9048307!2d139.4922029!4m5!1s0x6018da56b9cf4d49%3A0xe9d1ed2838c324b5!2z5bed6LaK6aeF77yI5Z-8546J77yJ!3m2!1d35.9070872!2d139.4826141!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1544314936084&w=2000&h=1000]
川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅢ
・蔵造りの町並み
・川越城本丸御殿
・仙波河岸史跡公園
出世稲荷神社について
出世稲荷神社は、江戸時代(天保2年/1832)に、京都の伏見稲荷神社本宮より分祀した神社です。
名前の通り出世の御利益があります!また伏見稲荷同様に、五穀豊穣や商売繁盛の御利益も。
すぐ近くにある賑やかな商店街をよそに、境内はとても静かです。時たま併設された公園から聞こえる、子供たちの声にふと心が和みます。
出典:カワゴエール
市指定・天然記念物
イ チ ョ ウ
いちょう窪の出世稲荷の公孫樹として名声がある。
向かって右は幹回り(目通り)5.67m、根回り7.6m、左は幹回り7.25m、根回り9.7mあり、二本とも樹高は約26.5m。
樹齢は650余年と推定され、みごとな美しさと枝張りを示し、樹勢もきわめて旺盛である。
公孫樹は、日本と中国の一部に産するイチョウ科を代表する落葉樹で、秋にはあざやかに黄葉する。
雌雄異株で、種はいわゆるギンナンで食用となる。
昭和33年3月6日
川越市教育委員会
川越 熊野神社
室町時代に紀州熊野本宮大社から分祀された開運・縁結びの神社。境内には、本殿や拝殿、神楽殿の他、歌碑がある。
出典:熊野神社
蓮 馨 寺
蓮馨寺は、埼玉県川越市連雀町にある浄土宗の寺院である。山号は孤峰山。院号は宝池院。本尊は阿弥陀如来。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小江戸 まめ屋
公益財団法人 山崎美術館
橋本雅邦画伯
橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、画道に勝れ、日本革新の先覚者であり明治時代における我が国画壇の最長老であります。
依って、郷土川越の有志が集まり、明治32年(1899)画宝会を結成し、先生のご力作の頒布をいただきました。
山崎家4代目故山崎豊翁は、同会の幹事として率先活躍するとともに、画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承させたものであります。
併し、子孫としては、社会公益の為、一般に広く鑑賞を仰ぎ、以って美学向上の資料に供するに、如かずと考え、ここに翁の誕生150年を記念し、昭和57年文化の日に山崎美術館を発足いたしました。
より多くの方々のご利用を切にお願いします。
出典:公益財団法人 山崎美術館
時の鐘
時の鐘は、埼玉県川越市の中心部、幸町北部の蔵造りの街並みに建てられている鐘楼。建物は、川越市指定有形文化財に指定されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川越城と中ノ門堀
川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。
当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。
天文6年(1537)、小田原を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石なものとします。
しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。
江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。
寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁を整えるにいたりました。
中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。
現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行15尺2寸(4.605m)、桁行30尺3寸1分(9.183m)ほどの規模でした。
棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。
※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ
事業の補助を受けて実施しました。
川越城と中ノ門堀
川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。
当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。
天文6年(1537)、小田原を本拠とする後北条氏は川越城を攻め落とし、同15年の河越夜戦によって北武蔵への支配を盤石なものとします。
しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。
江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。
寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭として体裁を整えるにいたりました。
中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。まだ天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して作られたのが中ノ門堀だったのです。
現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺き1階部分は梁行15尺2寸(4.605m)、桁行30尺3寸1分(9.183m)ほどの規模でした。
棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。
※本整備工事は、国土交通省まちづくり交付金・埼玉県観光資源魅力アップ
事業の補助を受けて実施しました。
中ノ門堀のしくみ
中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。
西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。
進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。
また、発掘調査ではす城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかりました。
中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60度、西側は30度でした。
つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。
明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。
川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成20・21年度に整備工事を行いました。
川越市立博物館
川越市立博物館は、埼玉県川越市の川越城二の丸跡に建設された川越市立の博物館。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初 雁 公 園
旧川越城本丸跡で、本丸御殿などの史跡も数多くあり、隣接する博物館、美術館とともに観光コースともなっています。また、ナイター設備のある野球場、夏季に開園するプールなどスポーツ施設があります。
野球場は、高校野球の予選会場としても利用されており、開催期間中は選手や関係者など多くの人で賑わいます。
出典:川越市公園管理事務所
三芳野神社
三芳野神社は、埼玉県川越市郭町の神社。童歌「通りゃんせ」はこの神社の参道が舞台といわれる。川越城築城以前から当地にあったが、太田道真・太田道灌父子による川越城築城により城内の天神曲輪に位置することになった。平成元年に大修理が行われ、平成4年に完成。埼玉県指定文化財。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川越城 富士見櫓跡
所在地 川越市郭町二丁目
御嶽神社が祀られているこの高台は、かつては川越城の富士見櫓が建てられていたところである。
櫓は矢倉とも書いて、合戦の際に物見として、あるいは防戦の足場として、城壁や城門の高い場所に設けられた建物を意味するが、天守閣のなかった川越城には東北の隅に二重の虎櫓、本丸の北に菱櫓、西南の隅に三層の富士見櫓があって、城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣の代わりとなっていたと思われる。
今日では、木々や建物のため、すっかり眺望も失われてしまったが、その昔はこの高台に立てば、富士見櫓の名の通り遠く富士山までも望めたことであろう。
元来、城の構造及び建造物は戦略上の都合もあって、その大部分が明らかにされることはなく、正確な規模は分からないが、江戸末期の慶応2年(1866)に川越城を測量した記録によれば、この富士見櫓は長さ八間三尺(約15m)、横八間(約14m)あったと記されている。
昭和57年3月
出典:埼玉県
七曲がり周辺(瘡守神社)
成田山川越別院のほど近く。県道15号線から1本路地に入って行くと、そこはくねくね折り曲がった細道が続く「七曲がり」ワールド!
七曲がりとは、川越城への敵の侵入を防ぐ為に造られた道で、わざと折れ曲がった道をつくることで敵の進軍を真っ直ぐに進めない様にしました。
ここ周辺は建物こそ新しい住宅が建ち始めてはいますが、道は当時の面影を残しています。
川越の町には、今でも「道のワナ」が多く残されています。例えば「鈎(かぎ)の手」「丁字路(ていじろ)」「袋小路」など。もしかしたら川越を観光・散策していると、ふと当時のワナに迷い込むかもしれません!
出典:カワゴエール
くらづくり本舗
くらづくり本舗とは、埼玉県川越市に本社を置く和菓子メーカー。埼玉県内に43店舗を展開する。代表取締役会長は自由民主党元衆議院議員の中野清。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
どろぼうばしの由来
所在地 川越市小仙波町一丁目
昔、この橋は、一本の丸木橋であったといわれ、これは、その頃の話である。
ここ喜多院と東照宮の境内地は御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行ではとらえることができないことを知っていた一人の盗賊が、町奉行の捕り方に追われ、この橋から境内に逃げこんだ。しかし、盗賊は寺男たちに捕えられ、寺僧に諭され悪いことがふりかかる恐しさを知った。盗賊は、厄除元三大師 に心から罪を許してもらえるよう祈り、ようやく真人間に立ち直ることができた。そこで寺では幕府の寺院奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出た。その後、町方の商家に奉公先を世話されると、全く悪事を働くことなくまじめに一生を過ごしたという。
この話は大師の無限の慈悲を物語る話として伝わっており、それ以来、この橋を「どろうぼうばし 」というようになったということである。
昭和五十八年三月
出典:埼玉県
喜多院 鐘楼門
喜多院にあるいくつかの国指定重要文化財の中の1つ「鐘楼門」。
鮮やかな朱塗りの2階建てで、寛永10年(1633/江戸時代)の建造と伝えられています。
1.鐘楼門の見どころ。
それは彫物。正面は「竜」、背面は「鷹」の彫物で色鮮やかな極彩色仕上げです。
2.鐘楼門の見どころの
見えそうで見えない銅鐘です。この銅鐘は、鐘楼門とともに重要文化財に指定されています。
出典:カワゴエール
喜多院 多宝塔
境内にそびえる朱色の多宝塔
寛永16年(1639/江戸時代)に建造され、現在埼玉県の有形文化財に指定されています。
この多宝塔は、江戸時代の大工棟梁「平内政信」が建造。平内政信は、全5巻からなる木割書「匠明」を著した人物で、喜多院多宝塔以外に、和歌浦天満宮(和歌山市)や輪王寺常行堂(日光市)なども建造しています。
現在は、本堂の斜め前に建てられている多宝塔ですが、もともとは山門前にある「白山権現」と「日枝神社」の間の古墳上に建てられていました。その後、2度の移築をし現在地にあります。
江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れ、境内で一際鮮やかで目を引きます。喜多院を訪れた際は、是非みておきたい建物の1つです。
出典:カワゴエール
喜多院 慈恵堂
埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参拝客が訪れる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia
喜多院 慈眼堂
喜多院境内の小高い丘の上には、天海僧正をまつる慈眼堂が佇んでいます。
この慈眼堂は、天海僧正が亡くなった3年後の天保2年(1645/江戸時代)に、徳川家光の命令により建てられたもの。国の重要文化財の指定をうけています。
建物の構造は、桁行(正面)3間、梁間(奥行)3間、背面は1間で庇がついています。シンプルながら趣を感じる建物です。
出典:カワゴエール
国指定重要文化財
川越大師 喜多院案内図
伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。
その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。
正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。
江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(1611)11月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。
江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。
戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。
現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。
1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。
文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。
出典:喜 多 院
川越市教育委員会
五 百 羅 漢
喜多院の五百羅漢の始まりは、これまで天明2年(1782)説がとられてきました。しかし近年、五百羅漢に関する詳細な調査が行われ、その経緯や造立年代などが明瞭になってきました。
それによると、本願主は川越北田島の志誠の他に蔦右衛門がいて、寛永8年(1796)に両名が発願しました。そして喜多院真珠院の協力を得て「五百羅漢建立募縁疏」を上木し広く寄進を募りました。羅漢像は翌年の寛永9年(1797)から文政8年(1825)のおよそ30年にわたって造立され、ほぼ完成したそうです。(寄付募金帳なる古文書が見つかっており、今後の研究が待たれるところです)
喜多院の五百羅漢は中央高座の大仏に釈迦如来、両脇侍(わきじ)に獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った普腎菩薩、左の高座に阿弥陀如来、右の高座に地蔵菩薩があり、大小の石仏像すべて合わせると538体です。このうち533体が羅漢像です。
出典:旅に行き隊![About]
拝観案内(三代将軍家光公誕生の間)
①三代将軍家光公誕生の間
②春日局の化粧の間
③五百羅漢
拝観事務所にて受付の上ご参拝下さい。
拝観時間
3/1~11/23
8:50~16:30
11/24~㋁末日
8:50~16:00
※日・祝は閉館時間を20分延長
拝観休業日
12/25~1/8
2/2~2/3 4/2~4/5 8/16
その他特別行事の時
天明2年建立
五百羅漢尊
喜多院の五百羅漢の始まりは、これまで天明2年(1782)説がとられてきました。しかし近年、五百羅漢に関する詳細な調査が行われ、その経緯や造立年代などが明瞭になってきました。
それによると、本願主は川越北田島の志(し)誠(じょう)の他に蔦右衛門がいて、寛永8年(1796)に両名が発願しました。そして喜多院真珠院の協力を得て「五百羅漢建立募縁疏」を上木し広く寄進を募りました。羅漢像は翌年の寛永9年(1797)から文政8年(1825)のおよそ30年にわたって造立され、ほぼ完成したそうです。(寄付募金帳なる古文書が見つかっており、今後の研究が待たれるところです)
喜多院の五百羅漢は中央高座の大仏(おおぼとけ)に釈迦如来、両脇(わき)侍(じ)(わきじ)に獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った普腎菩薩、左の高座に阿弥陀如来、右の高座に地蔵菩薩があり、大小の石仏像すべて合わせると538体です。このうち533体が羅漢像です。
出典:旅に行き隊![About]
仙波河岸のむかし
むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。
これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。
仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。
しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。
下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。
仙波浅間神社
冨士浅間神社
川越市富士見町、「川越駅」東口より徒歩12分ほどの場所に「仙波浅間神社」があります。
平安時代の武将「源頼義」がこの地に分霊をしたことにはじまり、それぞれの時代にそれぞれの人々が篤い信仰をして現在に至っています。
出典:カワゴエール
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