[googlemaps https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m76!1m12!1m3!1d25850.103332129605!2d139.4687280173479!3d35.91606408545251!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!4m61!3e2!4m5!1s0x6018da575808cc79%3A0x46e1f1b1293bb4be!2z44Kv44Os44Ki44OR44O844Kv!3m2!1d35.9105707!2d139.4828805!4m5!1s0x6018da5ebf455555%3A0xabe26a8d267558f5!2z5bCP5rGf5oi46JS16YeM77yI5bed6LaK5biC55Sj5qWt6Kaz5YWJ6aSo77yJ!3m2!1d35.916237599999995!2d139.483438!4m5!1s0x6018da5e3e9137b9%3A0xa070967d9072615c!2z5aSn5q2j5rWq5ryr5aSi6YCa44KK!3m2!1d35.919883299999995!2d139.48357099999998!4m5!1s0x6018da618c4167fb%3A0x27f2920eda13c433!2z5LiA55Wq6KGXIOiUtemAoOOCiuOBrueUuuS4puOBvw!3m2!1d35.9231501!2d139.4828699!4m5!1s0x6018da640fe3ba7d%3A0x497dbd8ef274a0fa!2z6I-T5a2Q5bGL5qiq5LiB!3m2!1d35.9246291!2d139.48105329999999!4m5!1s0x6018da64c6a1d06d%3A0x218c6d8bb433f323!2z5r-v57Sr5YWs5ZyS!3m2!1d35.9271502!2d139.4806212!4m5!1s0x6018da6141acb0ad%3A0xb93b6f615532ff61!2z5pmC44Gu6ZCY!3m2!1d35.9234758!2d139.48333499999998!4m5!1s0x6018daf67650773b%3A0xeb0ba29520bb6eb5!2z5bed6LaK5aSn5birIOWWnOWkmumZog!3m2!1d35.917527!2d139.488999!4m5!1s0x6018db01f903c9c5%3A0xfd2f8659e8a2dbb8!2z5LuZ5rOi5rKz5bK45Y-y6Leh5YWs5ZyS!3m2!1d35.9048307!2d139.4922029!4m5!1s0x6018da56b9cf4d49%3A0xe9d1ed2838c324b5!2z5bed6LaK6aeF77yI5Z-8546J77yJ!3m2!1d35.9070457!2d139.4827537!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1553240424424&w=2000&h=1000]
川越わくわくウオーキング教室
NPO法人埼玉ウオーキング協会
小江戸川越ウオークⅡ
・蔵造りの町並み
・菓子屋横丁
・仙波河岸史跡公園
蔵 里 小江戸蔵里(川越市産業観光館)
約120年間の歴史を持つ酒蔵を改装した「小江戸蔵里(産業観光館)」には、川越らしさと本物にこだわる「小江戸川越ブランド産品」、埼玉県内35蔵の日本酒、地場食材を生かした料理や加工品などが集結。
「蔵」の雰囲気を生かしたくつろぎと憩いの空間で、ここにしかない川越の魅力を発信しています。
「見て(酒蔵)」、「買って(お土産・地酒・発酵食品)」、「食べて(地場食材を使ったお食事)」、川越とそして埼玉の魅力を体験できる小江戸蔵里を、ぜひご利用ください。
歴史的・文化的な香りが漂う一番街の蔵造りの町並みと、商業・業務施設が集まるクレアモール。この中間に位置する小江戸蔵里は、観光客も市民の皆さんも楽しむことができる、地域のにぎわいを創造する施設です。
出典:川越市役所
火 除 稲 荷 大 明 神
川越大正浪漫夢通り
古き良き大正時代を思わせる情緒あふれる大正浪漫夢通り。通りを歩けば、そこかしこに大正ロマンの風情が漂います。毎日の買い物から、こだわりの逸品、川越観光のお土産などを販売する、個性豊かなお店が軒を並べています。大正ロマンの雰囲気を求めて、テレビや映画の撮影によく使われる商店街です。大正ロマンの風を感じに川越の大正浪漫夢通りへぜひお越し下さい。
出典:大正浪漫夢通り
明治の香り漂う蔵造りの街並み一番街
大きな鬼瓦の屋根に黒しっくいの壁と分厚い観音開きの扉…。まるでタイムスリップしてしまったかの様な感覚になる蔵造りの趣豊かな建物が立ち並ぶ町並み-「一番街」。
同じように見えて一軒一軒違う造りをしており、それぞれに個性を出しながら、堂々とした風格さえ漂わせている。その中で最も古く、1792年(寛政4)に建てられた大沢家住宅(写真左)は国の重要文化財に指定されている。
江戸時代、川越藩主松平信綱の町割りによって、通りに店が向かい合う形の家並みができあがったが、度重なる大火のため幕府がかわらぶきを奨励し、火事に強い建物として江戸の町で土蔵造りが流行した。これによって商業で江戸と結び付きが強かった川越でも、蔵造りの商家が建つようになった。 現在の蔵造りの多くは、川越大火後に建てられたもので、今も30数棟が残る。大正12年、関東大震災やその後の戦災によって東京の蔵造りが姿を消したこともあり、江戸の景観を受け継ぐ重要な歴史的遺産として、「時の鐘」をはじめとするこの一番街周辺は、平成11年12月1日に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。また埼玉りそな銀行の古い洋館は大正7年に建築されたもの。(写真右下)近年では新しい建築物も、景観を壊さないように工夫され、新しいものと古いものとが調和した街づくりが行われている。当時のたばこ問屋を整備した「蔵造り資料館」では、蔵造りの構造をはじめ、敷地内の各蔵の配置なども見る事が出来る。
出典:公益社団法人 小江戸川越観光協会
懐かしい味を今に伝える菓子屋横丁
色とりどりのガラスが散りばめられた石畳の道に、20軒程度の菓子屋などがひしめく川越の有名なスポット「菓子屋横丁」。素朴で昔懐かしい味を今に伝える菓子作りの店が立ち並び、一歩足を踏み入れると、誰もが子供に返ったような気分になってしまう。醤油の焼ける香ばしい香り、ニッキやハッカ飴、駄菓子やだんごなど、昔ながらの手法で作られる飴菓子・カルメ焼きなど、思わず「あっこれ!」と言ってしまう駄菓子の数々…。百円玉を握りしめ、あれにしようかこれにしようかと頭をひねった幼い頃を思い出す大人も、駄菓子をあまり知らない子供も世代を超えて、誰もがワクワクしてしまうような場所である。
「菓子屋横丁」は明治の始め頃、鈴木藤左衛門が養寿院の門前町として栄えるこの町で江戸っ子好みの 気取らない菓子を製造したことが始まりといわれている。その後の大正12年、関東大震災によって被害を受けた東京に代わって製造供給を賄い、昭和初期には70軒以上の店があったといわれている。その後、戦争や生活の変化などによって店舗数は激減したものの、人情味あふれる横丁の情緒、威勢の良い呼び込みの声、素朴で懐かしく温かい街角は、時代が変わっても人々に安らぎを与えてくれる。 「菓子屋横丁」に漂う素朴で懐かしい香りは、平成13年環境省の“かおり風景100選”に選定された。
出典:公益社団法人 小江戸川越観光協会
濯 紫 公 園
濯紫園と呼ばれた庭園のあった場所を新河岸川と合わせた親水公園として整備された公園。公園中程に起伏があり、登ると遊具が設置されている。
藤棚やベンチがあり子どもたちが遊ぶ空間が広がる。川沿いを歩くことができるので水辺の散策が楽しめる。
出典:川越市役所広報室
濯紫公園の由来
昔、ここに柳沢吉保の家臣山東小市郎の別荘があり、濯紫園と呼ばれる大変美しい庭園がありました。その後、唯心という僧がここで唯心庵を営んでいました。明治2年には水村氏により水車がつくられ、この水車は通称いおりの水車と呼ばれ人々に親しまれていました。
いおりの堰の上流側は子供たちの絶好の水泳や水遊び場だったそうです。
その後、新河岸川周辺の農地には住宅が建ち並び、水車も必要とはなくなり取り壊され、川も改修工事によって現在の姿になりました。
この公園は新河岸川の親水拠点として地元の人々と行政が協力し、川と公園を一体的に整備したものです。
この公園の名はかつての濯紫園にちなみ「濯紫公園」としました。
平成元年3月
川越夜戦古戦場跡(河越夜戦古戦場跡)
東明寺
所在地 川越市志多町
東明寺は時宗(開祖一遍上人)の寺で稲荷山称名院東明寺と称し、本尊は虚空蔵菩薩である。
お寺の位置は、川越台地の先端が水田地帯に接する北の端にある。このあたりからは、新河岸川を境として川越の町の北側を入間川を主流とする分流が幾筋も流れ、水田地帯を形成しており、古くからこの穀倉地帯を領する多くの武士団が存在した。東明寺はこうした土豪の一人河越氏の荘園の東端に連なる広い寺領を有していた。その寺領は東明寺村、寺井三か村、寺山村などに及び、広大な境内を有して、その惣門は今の喜多町の中ほどにあったと伝えられている。このことから喜多町の古名を東明寺門前町と称したといわれている。天文15年(1546)4月に戦われた、上杉、北条軍の川越夜戦は、一名東明寺口合戦といわれ、この地の要路松山街道を含んだ東明寺寺領と境内で争われたものである。
昭和57年3月
出典:埼玉県
小江戸の街に今も時を伝える川越の
シンボル時の鐘
情緒あふれる蔵造りの町並みにひときわ高くそびえる川越のシンボル「時の鐘」。蔵造りの町並み「一番街」と同様に、城下の頃の面影を残す建造物で、江戸時代初頭から城下の町に時を告げ、庶民に親しまれてきた鐘つき堂である。
今から約400年前、当時の川越藩主だった酒井忠勝によって創建されたといわれる。以来度重なる火災で鐘楼や銅鐘が焼失したが江戸時代を通じて度々建て替えられた。
現在建っているのは4代目に当たり、明治26年に起きた川越大火直後に再建されたもの。 町の3分の1が焼失した中で、暮らしに欠かせない「時」を告げる時計台は、自らの店も再建していない川越の商人達によって、いち早く建て直された。
時代が変わり鐘つきの方法が鐘つき守りから機械仕掛けへと変化しても、昔と変わらず今も蔵造りの町並みに時を告げている。また、その響きの良い音色は平成 8年、環境省の「残したい“日本の音風景100選”」に認定された。
木造で3層のやぐらで高さは約16メートル。午前6時・正午・午後3時・午後6時の1日4回鳴る鐘の音は、その時間時間の空の色や街の風景、漂う香りなどによってそれぞれに趣が感じられ、小江戸川越の情緒をたっぷりと味合わせてくれる。
公益社団法人 小江戸川越観光協会
公益財団法人 山崎美術館
橋本雅邦画伯
橋本雅邦画伯は、川越藩のお抱え絵師橋本晴園養師の子息にて、画道に勝れ、日本革新の先覚者であり明治時代における我が国画壇の最長老であります。
依って、郷土川越の有志が集まり、明治32年(1899)画宝会を結成し、先生のご力作の頒布をいただきました。
山崎家4代目故山崎豊翁は、同会の幹事として率先活躍するとともに、画伯から受けた作品をすべて大切に保管し、これを子孫に伝承させたものであります。
併し、子孫としては、社会公益の為、一般に広く鑑賞を仰ぎ、以って美学向上の資料に供するに、如かずと考え、ここに翁の誕生150年を記念し、昭和57年文化の日に山崎美術館を発足いたしました。
より多くの方々のご利用を切にお願いします。
出典:龜屋
成田山川越別院(本行院)
成田山川越別院本行院は、埼玉県川越市にある真言宗智山派の寺院である。成田山新勝寺の別院で、通称は川越不動。毎月28日には蚤の市で、11月には火渡り祭で賑わう。本尊は不動明王。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川越歴史博物館
国指定重要文化財
川越大師 喜多院案内図
伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。
その後鎌倉時代、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を歓請して官田五十石を寄せられ関東天台の中心となった。
正安3年(1301)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した。
江戸時代、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつぐが、同16年(1611)11月徳川家康が川越を訪れたとき寺領四万八千坪及び五百石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に二百石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院などに当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの建物を数年間の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されている。
江戸時代までは寺領四万8千坪、七百五十石の幕府の御朱印地として寺勢をふるったが、明治以降財力の欠如とその広さ、大きさのため荒廃に向った。
戦後文化財の指定とともに昭和大復興にとりかかり関係者の並々ならぬ努力によってその主な建造物の複原修理が完成し、それら偉観は、盛時を偲ばせるまでになった。しかし未だ完成しないところもかずあり今日までその整備事業は継続して行われている。
現在の境内地は東照宮を含めて一万四千坪あり、今日その緑は市民にとって貴重な憩いの場となっており池や堀をめぐらした景勝はそこに点在する文化財群とともに川越随一の名勝地霊場地として名高く厄除元三大師のお参りとともに四季を通じて史跡を訪れる人々がいつも絶えない。
1月3日の厄除初大師のご縁日には家内安全、厄除等の護摩祈願、また境内には、名物だるま市が軒をつらねて立ち並び、又2月3日の節分会、4月の長日護摩講の行事をはじめ毎日護摩供を奉じて所願成就の祈願を厳修している。
文化財の拝観ができ、最近では毎年5月の連休の一週間宝物特別展も開かれている。
出典:喜 多 院
川越市教育委員会
喜多院 五百羅漢
川越の観光名所の中でも、ことのほか人気の高い喜多院の五百羅漢。日本三大羅漢の一つに数えられます。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の志誠の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。
十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普賢の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全体538体が鎮座しています。
笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするのもあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。そして、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。
また、深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。
出典:喜多院
河越茶・狭山茶発祥の地 天台宗別格本山
中 院
喜多院の直ぐ南方にあり、正式には天台宗別格本山中院といい、閑静な佇まいが趣のある寺院。
古くは星野山無量寿寺仏地院と呼ばれ、鎌倉時代の終わり頃、無量寿寺から分かれたとされる天台宗の寺で、喜多院に天海僧正が来往するまではこの地の中心的な寺院であったといわれている。
中院は島崎藤村ゆかりの寺院として知られており、境内には川越市の文化財に指定された島崎藤村ゆかりの茶室・不染亭があり、現在は茶道を楽しむ人々に利用され、保存伝承されている。
また、境内には藤村の義母加藤みきの墓があり、藤村も度々足を運び墓石の「蓮月不染之墓」という戒名は、藤村が自ら筆をとり記したものだといわれる。 また桜の名所としても名高く、本堂前の枝垂桜は特に有名である。緑豊かな境内は春だけでなく、夏・秋・冬とそれぞれに色を変え、四季折々の表情で人々を楽しませてくれる。さらに、ここ中院は川越茶・狭山茶の発祥の地としても有名。
開山の際、円仁が京より茶の実を携え、境内に薬用として栽培したのが始まりで、30年ほど前までは境内にも茶畑があったという。境内にはその旨を記した石碑が建てられている。 木々を愛でながら 時の流れをゆっくりと感じ、心洗われるひとときを感じられる場所だ。
出典:公益社団法人 小江戸川越観光協会
仙波河岸のむかし
むかしこの場所には「仙波河岸」という河岸場がありました。仙波河岸ができたのは明治の初めごろのことです。
これまでにも新河岸川の下流にはすでに数箇所の河岸場があり、江戸と川越の間を船を使って物品を運んでいました。これが「新河岸川舟運」と言われているものです。
仙波河岸は新河岸川の最も上流に位置し一番新しくできた河岸場です。
しかし、明治の中ごろから東京との間に鉄道が整備されはじめました。また、大正時代には新河岸川の改修工事が始まり、昭和の初めには新河岸舟運も終わりをむかえました。
下の写真は仙波河岸に荷船が並んでいる様子を写した明治時代後期の写真です。
仙波河岸史跡公園
新河岸川舟運の面影を伝える仙波河岸跡や、水や緑といった自然が多く残っており、歴史と自然を楽しむことができる歴史公園です。
仙波河岸跡、仙波の滝、湿性地などの区域を遊歩道や木デッキで回遊することができます。
出典:川越市役所
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