5月30日
となり町川越妖怪伝説ウオーク
season 2 ③ 12km
ぐるっと埼玉サイクルネットワーク
39日光街道杉並木歴史に触れるルート
ルート解説 |
鶴ヶ島市の歴史スポットをめぐるコース。 江戸時代から続く日光街道や、今でも伝統行事が 行われる舞台に立ち寄りながら、ふるさとの原風 景が残る地域を手軽に楽しむことができます。 |
みどころスポット |
① 雷 電 池 三郡八景の一つ「雷電池過雨」といわれた池や龍神伝説を伝える木立に囲まれた小さな池で、4年に一度オリンピックの年に「雨乞い行事」が行われます。池の傍には、遊具等が整備され、静かで落ち着いた公園となっています。 | |
② 白 鬚 神 社 奈良時代に武蔵国開拓のため移住してきて高羅郡を開いた高句麗人たちの崇敬した神社で、神社のうしろには、樹齢約7百年といわれる欅の大木があり御神木となっています。 | |
③ 日 枝 神 社 高倉日枝神社で、毎年11月2日と3日に豊作の感謝と村内安全、悪疫退散のための獅子舞が奉納されています。江戸時代から続く伝統芸能で、現在、市内に残される唯一の獅子舞です。獅子3□、はいおいなどが、笛吹きと歌うたいに合わせて舞を舞います。 | |
鶴ヶ島農産物直売センター 4月には桜・菜の花が咲き、豊かな自然に恵まれており、季節に応じた新鮮野菜を出荷しています。センターの特徴の一つは、花・植木「園芸コーナーで」、求めやすい価格で四季折々の花々を揃え、また、特に春は野菜苗が多く出荷され、買い求める来場者で賑わいます。 | |
池 尻 池 池尻池は、水面に浮かぶ島の老杉の根本に池の守り神として古くから諏訪明神が祀られています。池を取り巻く林は、静かな武蔵野の面影を今に残し公園として利用され、夏には、樹林に涼風を 味わう休息の場所となっています。 | |
高 倉 菜 の 花 畑 4月から5月初旬まで、約2ヘクタールに広がる黄色一色の絨毯のような菜の花畑と、その上で泳ぐこいのぼりが一体となった景観を楽しむことができます。菜の花畑には散策路が作られるほか、菜の花まつりも開催され、大勢の人々でにぎわいます。 | |
日 光 街 道 杉 並 木 江戸時代に八王子千人同心が、日光東照宮警護のため往来した街道で、「日光脇住環」とも呼ばれています。この街道の杉並木は、川越城主松平伊豆守が植えたといわれ、樹齢300年以上の木々が残る貴重な緑の遺産です。 | |
⑧鶴 ヶ 島 運 動 公 園 自然の生態系を配慮した緑の多い公園です。既存樹木を活用した樹林地、太田ヶ谷池などの水辺、メイングラウンドを中心とした運動施設があります。子供からお年寄りまで幅広い年齢の方に気軽に利用していただけます。 | |
⑨高 徳 神 社 太田ヶ谷熊野神社、三ツ木白髭神社、護金氷川神社、上広谷、五味ヶ谷氷川神社が合祀し、武蔵野の面影をそのままのようにしたような森の中に鎮座され、祀られています。高徳神社の由来は、多くの神社が集まり神徳が高いという意味です。 |
広 域 案 内 図
周 辺 案 内 図
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小 畔 川
埼玉県飯能市大字宮沢の宮沢湖に源を発し、途中、中田橋下流で南小畔川を合わせ、川越市と坂戸市境界付近の落合橋下流で越辺川に合流する。越辺川に合流して間もなく入間川に合流するため、入間川の直接の支流と誤解されやすい。
源流の宮沢湖には、飯能市小瀬戸地区で入間川の取水口から入間第二用水を使い通水し、溜められた水は小畔川流域の水田等への用水に利用されている。このため小畔川中流部には固定された堰が多く魚類の遡上が制限されている。入間川で瀬切れが発生する状況でも流域付近は伏流水が豊富で流れが途絶えることは無い。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ご協力ありがとうございます。
堤防の安全を確認するため
除草や補修をしています
令和2年㋂31日まで
時間帯8:00~17:00
H31入間川管内維持管理工事
発注者 国土交通省 関東地方整備局
荒川上流河川事務所 入間川出張所
施工者 初雁興業株式会社
川越西文化会館(メルト)
愛称について
昭和63年に開館した川越西文化会館ですが、平成6年の川越南文化会館の開館時に併せて公募いたしました。「メルト」とは「和らぐ心」を意味し、「会館を利用する人の心が和らぐように」とつけられました。
出典:川越市施設管理公社
四 つ の テ ス ト
言行はこれに照らしてから
1.真実かどうか
2.みんなに公平か
3.好意と友情を深めるか
4.みんなのためになるかどうか
川越西口ロータリークラブ
創立10周年記念
平成2年2月22日
川越市上戸にある日枝神社
歴史も古く創建は平安時代。日枝神社の歴史には、平安時代末~南北朝時代(約200年間)に、関東で大きな勢力を誇った河越氏が深く関わっています。詳しくは下記、上戸日枝神社の略歴をご覧ください。
河越氏は代々、この上戸日枝神社を鎮守として崇め、銅鐘(国指定重要文化財/養寿院 所蔵)や太刀(川越歴史博物館 所蔵)を奉納しています。
*現在、養寿院が所蔵している銅鐘は非公開。
また、上戸日枝神社は桜の名所。
普段は静かな境内が、春には境内の桜がいっせいに淡いピンク色になり、訪れる人を楽しませてくれます。この境内の桜は川越市の川越景観百選にも選ばれています。
出典:カワゴエール
日枝神社(新日吉山王宮)の由来
後白河法皇は、永暦元年(1160)皇后の守護神である山王七社の神々を、比叡山東坂本の日吉大社から京都の東山に迎えて新日吉神宮としました。同年、河越氏は、河肥三十三郷を莊園として後白河法皇に寄進し、自らは莊官として力を振るうことになりました。このため、河越莊内(上戸)に新日吉山王宮が勧請されました。
江戸館の主である江戸氏は、河越氏の分かれであることから貞治元年(1362)に江戸館を築いた時に、河越氏の氏神様である上戸の新日吉山王宮(山王様)の分霊社を江戸館の鎮守社として遷し祀りました。これが東京の赤坂にあるに日枝神社であります。
本殿は(川越市指定文化財建造物)は、大型の一間社流造で、木割が太く、つくりはしっかりしています。妻飾り・組物・内法長押には極彩色が施されており、背面板壁に菊花紋、側面板壁に菊水紋が描かれていた痕跡があります。装飾が控えめで、保守的・伝統的な近世前期の神社本殿の形式を伝えています。
なお、日枝神社の由緒書きによると、本殿の造営は、貞享3年(1686)とあります。
平成26年10月吉日 氏子中
天額謹書 川越市教育長 伊藤明
川越市文化財指定記念碑
工芸品 懸仏 昭和45年1月12日指定
史 跡 境内 平成13年5月9日指定
建造物 本殿 平成21年1月26日指定
当社は、往時日吉山王権現と称し、貞観年代(西暦860年)の頃、陸奥の国の休慶と言う修行僧が、上戸の地に立ち寄った際、神告によりこの地に社を建立した。永暦元年(西暦1160年)後白河法皇が京都の東山に新日吉山神社を祀ったことにともない、永暦2年、河越重隆が河肥三十三郷を後白河法皇に寄進し、以後法王の御領地となり、新日吉山王権現と称された。
鎌倉時代、寛元元年(1243年)に北条時頼が社殿を再建する。明治元年、神仏分離令により日枝神社と改め、上戸村・鯨井村・的場村の三ケ村の総神社となる。この度永年の願いであった本殿が、文化財に指定されたのを記念して、氏子一同で祝い、記念碑を建立し、ささら獅子舞を奉納して記念植樹を行う事とした。
平成22年10月吉日
天額謹書 川越市長 河合善明
市指定・史跡
懸 仏
日枝神社は、国指定史跡河越館跡にほど近く、12世紀の後半に河越莊が京都新日吉社に領地を寄進して莊官となり、その結果、この地に新日吉社が分祀された。ここに祀られている懸仏は、鋳出しの手法で弥陀三尊をあらわしたもので二箇の釣手の耳をもち、鉄円板の直径は25㎝、室町時代の製作と思われる。
懸仏とは、円板上に仏像または神像をあらわし、本地仏を神鏡面に影現したもので、神社・仏閣の内陣に懸けるようにしたものである。
平成5年3月
川越市教育委員会
体験者と狐(川越市上戸316)
狐のユーモアある仕返し
昔、上戸の日枝神社の裏辺りは樹がうっそうと茂り、日中でも暗い所でした。
そのためか、人を化かす狐がたくさんいたということです。ある修験者が森の中を通りかかると、一匹の狐が昼寝をしていました。修験者は「大変だ!猟師が来たぞ!」と大声で言って、狐に小石を投げつけました。狐はびっくりして逃げ出したため、修験者は『狐のやつめ、人間に化かされたわい」と得意そうに笑いました。その日の夜、修験者の家に頬かむりをした男がやって来て、「あなたの仲間が急病になって倒れています、すぐに来てください!」と言うので、出かけました。頬かむりの男は、すごく足が速くてなかなか追いつけません。修験者は必死で歩きましたが、とうとう東の空が白み始めました。さすがの修験者も疲れて「ちょっと休もう」と腰をおろして辺りを見回したところ、そこは何と昼間通った日枝神社の裏の森の中だったのです。見事に狐に仕返しをされたのです。
平安時代に京都の新日吉山王社から分祠された上戸日枝神社。このエピソード以外にも、多くの伝説が残る神社です。
出典:川越の伝説
河越館跡は、平安時代から南北朝時代まで武蔵国の中で有数の勢力を誇った武士・河越氏の居館跡です。
河越重頼の娘が源義経の正妻になったことからも、中世武家政権を支えた河越氏の勢力が伝わります。
しかし、室町時代の1367(貞治6)年に、鎌倉公方足利基氏が死去すると、河越直重を中心とする平一揆と関東地方を統治する政庁である鎌倉府と対立。ついには、1368(応安元)年に「武蔵平一揆の乱」が起り、平一揆が河越館に立てこもり、鎌倉府に反逆いたしますが、敗北してしまい、これ以降、河越氏は歴史の表舞台から消えてしまいます。
しかし、武士の実態を解明する上で重要な遺跡として、昭和56年12月6日に国指定遺跡となり、河越館跡の保温を図るとともに、郷土学習の場、市民の憩いの場として、平成22年春にオープンいたしました。
出典:小江戸川越観光協会
河越館跡をイメージする
これまでの発掘調査の積み重ねから堀や井戸などが確認され、河越館の姿が少しずつ明らかになってきました。しかし、具体的な建物の姿や当時の景観などまで類推することは困難です。そこで調査結果と当時の絵画資料などを参考として14世紀半ば頃の河越館の様子をイメージしてみました。
発掘調査では上幅約4m、深さ約2mで堀で囲まれた区画(1)、掘立柱建物(2)や井戸(3)、石を葺いた霊廟と思われる塚(4)が確認されています。この区画は道路(5)に囲まれ、南側には出入り口として土橋(6)があったと考えられます。
堀区画と道路を挟んで西側に隣接する位置には、土塀あるいは板塀で囲まれた墓域と考えられる区画(7)が存在します。また北側にも堀が確認されており、こちらにも堀で囲まれた区画(8)が存在したようです。
発掘調査された範囲では、残念ながら主屋となる建物は見つかっていませんが、古い時代の遺構・遺物が集中する入間川寄りの場所を想定しています(9)。また、館の南には河越氏の持仏堂から発展した常楽寺(10)があります。
周辺に目を向けると、館の東隣には水運で重要な役割を果たしたであろう入間川(11)が流れており、西に見える新日吉山王宮(12)の近くには鎌倉街道(13)が通過していました。河越館が水・陸の交通の流れを押さえた交通の要衝に立地することがわかります。
このように、河越館は、主屋や墓域など、役割の異なる複数の区画によって構成されていたようです。区画の周囲を廻る道路や鎌倉街道、入間川などによって様々な人や物資、情報が集まってきた河越館は、周辺地域の中心となる都市的な場でした。応安元年(1368)、平一揆が敗れ、河越氏が歴史の表舞台から姿を消した後も、寺域や戦いの陣所として利用され続けたのです。
周りを掘で囲って板塀(いたべい)を巡らせ、入口には橋をかけて櫓門(やぐらもん)を有します。庭の奥には寝殿(しんでん)造(づくり)の主屋、庭の右手には板葺(いたぶき)屋根の副屋(そえや)と厩(うまや)が配置されています。 |
□『法然上人絵伝(模本)』美作国・漆間時国の館(東京国立博物館蔵)
垣根で囲まれた屋敷内に、板葺(いたぶき)の下屋(げや)を回す茅葺(かやぶき)の寝殿風(しんでんふう)の主屋と、寝殿への玄関となる中門廊(ちゅうもんろう)があります。また、別棟で板葺(いたぶき)の厩(うまや)・茅葺(かやぶき)の厨(くりや)が見えます。 |
□『男衾三郎絵詞』武蔵国・男衾三郎の館(東京国立博物館蔵)
板塀(いたべい)で囲われた中に、武士の詰める侍廊(さむらいろう)が見えます。画面の外、これより奥には寝殿(しんでん)への玄関となる中門廊(ちゅうもんろう)と主人家族のいる寝殿(しんでん)が続き、典型的な寝殿造(しんでんづくり)の特徴が見られます。 |
河越館跡の発掘調査成果
河越館跡では平成20年度までに13回の史跡整備に向けた範囲内容確認調査、11回の各種確認調査が実施されてきました。これら過去の調査結果と文献資料を併せると、河越館跡は下記のように大きく分けて4つの時期に亘って繰り返し利用されてきたことがわかりました。
Ⅰ期:「川越氏」の時代(12世紀後半~1368年)
川越氏が館を構えてから平一揆で敗れ、この地を離れるまでの時期です。「コ」の字型に廻る8号堀跡で区画された内側に、2号堀立柱建物跡・6号井戸跡・39号溝(霊廟か)が確認されています。この区画は建物等の遺構こそ少ないものの、河越氏が活躍した時代でも後半に属する、屋敷地の一部と考えられます。
遺物はかわらけ(儀式や酒宴で使い捨てにされた素焼きの器)、中国から輸入された青白磁の梅瓶といった武士の生活を偲ばせるものの他に、火を受けた痕跡の残る軒丸瓦や磁器が出土しており、平一揆による兵火との関連がうかがえます。
Ⅱ期:「常楽寺」の時代(14世紀後半~15世紀後半)
史跡内に残る時宗の寺院・常楽寺は河越氏の持仏堂が起源といわれ、河越氏が衰退した後に寺域を広げたと考えられています。
この時代の遺構は8号堀区画の西隣(次期整備予定地)で多く検出されています。塀による区画内に、墓坑と思われる土坑群と半地下式の建物群が」集中し、板碑や石塔類、茶道具である茶臼・風炉、仏具である銅製花瓶が出土しています。
Ⅲ期:「山内上杉氏」の時代(15世紀末~1505年)
15世紀末には、扇谷上杉氏の河越城を攻略するため、山内上杉氏が陣所を構えました。この陣所に伴う遺構は数多く、26号堀を始めとした規模の大きな堀や地下式坑、方形竪穴等が検出されています。陣所設置の際には常楽寺の寺域を整理し、堀や井戸に板碑等を投棄した状況が見られます。
また、現在も史跡西側に残る土塁はこの時期の遺構と考えられています。
遺物は中国産の青磁・白磁、瀬戸・常滑といった陶磁器類の他、武士の屋敷で使用される火鉢、刀装具等も出土しています。中でも山内上杉氏に関わる時期・地域の遺跡で特徴的に見られる「山内かわらけ」と呼ばれるかわらけも数多く出土しています。
Ⅳ期:「大道寺氏」の時代(16世紀中頃~1590年)
山内上杉氏陣所以降については、遺構・遺物が少なくなり、発掘調査成果だけでは当時の河越館跡の姿は明らかにできません。同様に文献資料も少ないですが河越城を拠点とした小田原北条氏の重臣・大道寺政繁の墓所が常楽寺内に所在することから、大道寺氏が陣所として整備した可能性が考えられています。
●発掘調査の様子
●てづくねかわらけ | ●古瀬戸壺 | ●銅製花瓶 |
●山内かわらけ | ●大鉢 | ●青磁・白磁・青白磁 |
●堀から出土した瓦 | ●かわらけ溜まり | ●井戸に廃棄されたかわらけ |
●柱穴と井戸 | ●機構測量の様子 | ●重なりあった堀 |
●堀に廃棄された石塔類 | ●板碑出土状況 |
史跡河越館跡整備について
国指定史跡 河越館跡
所 在 地 川越市大字上戸・鯨井地内
指 定 昭和59年12月6日
指定 面積 48,509,18㎡
河越館跡とは
河越館跡は平安時代末から南北朝時代にかけて、有力な関東武士であった河越氏の居城です。中世武家政権を支えた在地領主の実態を解明する上で、きわめて重要な遺跡であり、昭和59年12月6日に国指定史跡となりました。
平成21年、河越館跡の恒久的な保存を図りつつ、関東武士の館を偲ぶとともに地域の人々の憩いの場として整備しました。
史跡整備に向けて
国指定は国・県の補助を受けて史跡範囲内の土地公有化を進めつつ、学識経験者による調査指導委員会・整備検討委員会を発足しました。これらの委員会の指導の下、史跡整備に向けた発掘調査の実施と整備方針の検討が進められ、平成18年度には調査成果を基に整備基本設計が策定されました。基本設計では整備範囲及び工期を発掘調査成果に応じて段階的に進めるとし、第1期整備では、河越氏の活躍した時代の遺構を中心に整備しています。
河越館跡 整備平面図
施設案内図
上から見た河越館跡
河越氏について
河越氏は、桓武平氏流の秩父市を祖とする、関東を代表する名族です。平安時代の終わりごろには、「河越」を名乗り、南北朝時代まで活躍しました。その間平氏・源氏・北条氏・足利市という時の権力者と密接な関係を築きました。とりわけ鎌倉初期、河越重頼の娘は源義経の正妻に選ばれており、当時の河越氏がいかに有力な武士と考えられていたのかよくわかります。また、平安時代の終わりから鎌倉中期まで河越氏は、代々武蔵国の筆頭格である留守所惣検校識という在庁職を認められ、南北朝期には相模守護にまで任命されました。一方、河越氏は、後白河上皇が永暦元年(1160)に創建した京都新日吉社に土地を寄進して、河越莊とし、領土経営を展開しました。しかし、応安元年(1368)、平一揆を組織した河越氏は、鎌倉府と対立し、河越館での戦いに敗れ、表舞台から姿を消してしまいました。
※『千葉上総系図』をもとにその他の史料から加筆しました。日本史年表・川越館に関する年表
1 | |
■源義経像(中尊寺蔵) | ■平一揆が敗れ、燃える河越館(1368年) |
■源義経に輿入れする河越重徳の娘(1184年) | ■上戸陣所の連歌会(1502年) |
■大田道灌像(複製:川越市立博物館蔵)原資料:大慈寺蔵 |
■一遍人像(清浄光寺蔵) |
井 戸 跡
(6号路井戸跡)
川越氏の屋敷区画(8号堀区画)内部にある井戸跡で、13世紀後半~14世紀頃の年代が考えられます。約2.5m四方の方形範囲を2.5m以上堀り窪めた中央に、板材を方形に組み上げた約1.2m四方の井戸側(水を汲み上げる部分)を造り、周囲を埋め戻すという工法を採用しています。当時の武蔵国では素掘りの井戸が主体であり、この井戸のように大きな掘り方(余堀り部分)で、板材で組み合せた井戸側を有するタイプの井戸は希少でした。
●井戸跡の断面
6号井戸跡断面図
塚 状 遺 構
(39号溝跡)
発掘調査では、幅0.7~1.0m、深さ0.3m程度の溝が一辺約7.6mのやや丸みを帯びた方形に巡り、溝の中には10~20㎝の礫が大量に流れ込んでいる状態で確認されました。出土遺物に蔵骨器として使用が考えられる常滑焼の壺や在地産の捏ね鉢(蔵骨器蓋に転用か)等が見られることから、周囲を溝で囲まれ、盛土に礫を葺いた塚状の遺構であったと考えられます。
既に盛土が削平されているため、塚の上に構造物があったのかどうか、構造物があるとすればどのようなものであったのか明らかではありません。しかし、蔵骨器とみられる遺物の出土、河越氏の屋敷区画(8号堀区画)の北西角に位置する点を考慮すると、河越氏の屋敷区画の隅に造られた、祖先を祀る霊廟や納骨堂といった宗教的な役割を持った施設であると考えられます。
出土遺物の年代に13世紀~14世紀と幅があることから、途中に追葬等が行われた、存在期間の長い遺構だったのでしょう。
●出土した捏ね鉢(左)・常滑壺(右)・古瀬戸入子(下)
●溝に流れ込んだ礫
山内上杉氏の陣所を区画した堀
(23・26・27・28号堀跡)
15世紀末~16世紀初頭頃、河越館跡には扇谷上杉氏の本拠地・河越城攻略のため、山内上杉氏によって陣所が築かれました。この堀は山内上杉氏の陣所に伴うもので、防御のため複雑に堀を曲げ、短期間で何度も堀を付け替えが行われています。
堀の肩には幾つものピット(柱穴)が検出されており、堀に沿って柵のようなものが作られていた様子がうかがえます。
整備では河越氏の時代に造られた堀と区別するため、舗装による平面的な表示にしています。
山内上杉氏陣所に伴う堀跡
塚状遺構(39号溝)
●堀跡(26・27号堀)人の立っている所に柱穴が並んでいます
堀跡の断面形状
【橋りょう】 雁見橋〔川越市〕
【川越の北西の玄関口】
雁見橋は、入間川にかかる主要地方道川越坂戸毛呂山線の橋である。川越坂戸毛呂山線をそのまま川越市内に向かうと、蔵づくりの街並みが広がる市街地にさしかかる。
出典:埼玉県庁
上寺山の観音様(川越市上寺山136)
元の住処に一人で戻ってきた観音様
上寺山の観音堂にある御本尊は行基の作といわれ、大変大事にされていました。ある日のこと、お堂にやってきた人が「こんなに素晴らしいご本尊を、ここにおいてはかわいそうだ。上戸にある常楽寺のような大きな寺に納めた方がお喜びになるだろう」と言って、常楽寺に持っていきました。ところがある朝、常楽寺の住職が本堂を見ると観音様の像がありません。四方八方探したところ、なんと上寺山の観音堂に戻っているのではありませんか。観音様は「もとの住処の方がよい、よい」と言って、夜のうちに帰ったそうです。それからというもの、二度と観音様をお堂から出さなかったそうです。
奈良時代の僧・行基の作と伝えられている観音像。今も色褪せない神々しさをたたえています。
出典:川越の伝説
許可年月日 平成27年4月27日許可番号 荒上占許第 17号
平成26年10月 1日
占用 期間 占用面積7,201㎡
平成36年 9月30日
占用 期間 川越市及び市道0017号線・市道9966号線
名称又は
川 越 橋
種 類
許可受人
川越市長 川合善明
住所氏名
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