穏やかな雲一つない秋空の下、野火止用水(武蔵野線新座駅から西武池袋線清瀬駅)の散策ウオーキング
野火止用水公園
埼玉県新座市にある野火止用水公園は、ふるさと新座館に隣接する公園で、公園の名の通り園内には野火止用水が流れており、芝生広場やじゃぶじゃぶ池などがあります。じゃぶじゃぶ池の中は清潔感のあるタイル張りで凸凹も無く、水深もほとんどないので、小さなお子様が安全に水遊びを楽しむことが出来ます。例年7月の初旬にオープンしております。
出典:埼玉県地域情報サイト「さいたま・なび」
野 火 止 用 水
野火止用水は、承応4年(1655)に川越藩主松平伊豆守信綱が、武蔵野開発の一環として、領内の野火止台地開拓のため、必要とする生活用水の確保を目的として開削した用水路である。
幕府の老中職を務めていた信綱は、承応2年から承応3年にかけて、江戸市中の上水を確保するため、総奉行として、難工事の末、玉川上水を完成させたが、この功績により、玉川上水から三分(三割)の分水許可を得て、野火止用水の開削に取りかかった。
用水は、多摩郡小川村(現、東京都小平市)で玉川上水から分水され、野火止台地を経て新河岸川に至る全長約25㎞にも及ぶ。
工事は、信綱の家臣である安松金右衛門らに命じておこなわれ、費用は三千両を要したと言われている。川越の商人榎本弥左衛門が書いた「萬之覚」によると、堀り始めたのが承応4年2月10日頃で、40日後の3月20日頃には水が流れてきたことが記されている。
水路は、25㎞の高低差が約90m非常に緩やかな勾配にもかかわらず、野火止台地の地形をうまく利用して引水されており、土地の低い所は、いろいろな土を一層ずつ突き固める土木工事の技法である版築法を用いて堤を築き、堤の上に水路を開削するなど、高度な技術が用いられている。
その後、平林寺堀、陣屋堀などの支流がつくられ、豊かな水を得た土地の人々は、この用水に深く感謝して「伊豆殿堀」とも呼んだ。
以来3百年余り永きにわたり野火止用水は、野火止台地と人々の心をその清らかな流れで潤し続けている
貴重な文化財を大切にしましょう。
平成6年1月
出典:埼玉県
新座市
埼玉県指定史跡
野火止用水
武蔵野のうちでも野火止台地はとくに高燥な土地で、自然の水利には恵まれませんでした。川越城主松平伊豆守信綱は私領であるこの地方を開発するため、江戸の上水道である玉川上水を完成した功績により、玉川上水から三割の分水許可を得て、承応4年(1655)野火止用水を開削しました。
工事は家臣の安松金右衛門に命じて行なわれ、当初東京都下の小平市小川町から志木市の新河岸川までの約25㎞について開削しましたが、のちに新河岸川に、いろは(四十八)の樋を架けて、宗岡の水田地帯をうるおすようになりました。また、寛文3年(1663)、岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも用水路を開削して引水しました。
幹線水路は、本流を含めて四流あり、末端は樹枝状に分かれています。支流は通称「菅沢・北野堀」「平林寺堀」「陣屋堀」と呼ばれています。
用水敷は、おおむね四間(7.2m)あり、水路敷二間を中にして、その両側に一間ずつの土あげ敷をもっていました。
水路は、地形的に高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に果たした役割りは、きわめて大きいものでした。
出典:新座市
国指定天然記念物
平林寺境内林
新座市野火止3丁目1078番地ほか
昭和43年5月28日指定
この林は、東京近郊の武蔵野の雑木林が減少の一途をたどっている現在、広い面積にわたって自然の残されたものとして貴重であり、境内を中心とした約56haが、国の天然記念物に指定されています。
林は日本の代表的二次林であるコナラ・アカマツ・エゴノキ・クヌギ・クリ・イヌシデ・モウソウチクなどの林から成っており、林床にはアズマネザサやクマザサが環境の変化に応じて優占しています。
また、ここは県内平野部における屈指の鳥類息地で、カケス・アカハラ・ルリビタキ・アオゲラ・キジバトなど約60種が、繁殖地あるいわ中継・越冬地として利用しているのが見られます。
平成5年3月
◎この天然記念物は文化財保護法によって指定されています。みだりに動植物を採取すること、その他保存に影響をおよぼす行為は禁じられています。
出典:文 化 庁
埼玉県教育委員会
新座市教育委員
公園にあつまる野鳥たち
秋~冬~春
●ジョウビタキ(スズメくらい) 銀灰色の頭、黒い顔。だいだい色の腹。翼の白い紋が目立つ。♀は薄茶色の体。ヒッヒッヒッカッカッ。 | ●シジュウカラ(スズメくらいやや小さい) 黒い頭、頬の大きさ白色。腹までのびた黒ネクタイが特徴。 チッ。ジュクジュク、シシピンツツピン。 | ●コガラ くちばしはやや細く、頭上の黒色部は光沢がなく褐色を帯びている。顎と喉は黒色。声はピピーピピまたは、ホーヒーホーヒ戸と鳴く。 |
●コゲラ 頭上から体の上面は黒褐色で、背と翼には白色の横斑がある。体の下面は汚白色で目から頬にかけてと□□/は黒褐色、胸側から脇には褐色の縦斑。声は、ギィーッキッキッキッ。 | ●カケス 頭上は、白地に、黒の建斑がある。目の周囲と顎線は黒く、喉腰、下腹は白い。目は青白色。声はジェーイという。ほかに奇声をはっする。 | ●アカハラ(ヒヨドリくらい) 胸からわき腹は美しいキツネ色キョッキヨッまたはクワックワッ、ショー |
野火止ホタル飼育施設
新座市役所 西分町内会
埼玉県指定史跡
野火止用水
昭和19年3月31日指定
武蔵野のうちでも、野火止台地は特に高燥な土地で、自然の水利には恵まれませんでした。川越城主松平伊豆守信綱は、私領であるこの地方を開発するため、江戸の上水道である玉川上水を完成した功績により、玉川上水から三割の分水許可を得て、承応4年(1655)野火止用水を開削しました。工事は家臣の安松右衛門に命じて行なわれ、当初東京都下の小平市小川町から新河岸川までの約25㎞について開削しました。のちに新河岸川に、いろは四十八の樋を架けて、宗岡の水田地帯をうるおすようになりました。また、寛文3年(1663)岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも用水堀を開削して引水しました。
幹線水路は、本流を含めて四流あり、末端は樹枝状に分かれています。支流は通称「菅沢・北野堀」「平林寺堀」「陣屋堀」と呼ばれています。
用水敷は、おおむね四間(7.2m)あり、水路敷二間を中にして、その両側に一間ずつの土あげ敷をもっていました。
水路は、地形的に高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に果たした役割りは、きわめて大きいものでした。
野火止用水の流れは、昭和38年頃までは付近の人々の生活水として利用されていましたが、急激な都市化の影響により、水はしだいに汚濁し、流れに泳ぐ魚や用水で遊ぶ子供たちの姿をみることはできなくなってしまいました。
そこで昭和49年度から、東京都と埼玉県・新座市で復原・清流復活の事業に着手し、本流と平林寺堀の一部に清流を復活させました。
平成元年3月
出典:埼玉県教育委員会
新座市教育委員会
平林寺の雑木林
平林寺境内林は、クヌギ、コナラ、エゴなどの雑木林を中心に、シラカシ、マツ、スギ、竹林を含む典型的な武蔵野の里山の風情を昔のままとどめる貴重な森として、国の天然記念物に指定されています。
自然と共にあった先人が雑木林の落葉を有機肥料に役立たせ、伐採した樹木を薪炭にも利用した知恵を後世に伝えるため、高圧線下の樹林をおよそ20年間周期で根元から伐採し、萌芽した若木を株立林に育て雑木林を持続的に保存します。
平林寺境内林は、全域、禅の厳しい修行道場であり、鳥や昆虫や植物、そして何よりも人間に安らぎを与える聖域です。
静寂の維持と自然環境保全に皆様のご理解ご協力をお願い致します。
雑木林の移り変わり
雑木林の生き物たち
植 物 相
高 木 | ケヤキ、クヌギ、コナラ、クリ、ムク、シデ、エニキ、エゴ、シラカシ、アカマツ、スギ、ホオ、ヒノキなど |
低 木 | アオキ、サンショウ、ムラサキシキブ、ヒサカキ、イヌツゲ、ヤマツツジ、クサギ、ニワトコ、ゴンズイ、ガマズミ、アズマネザサ、クマザサ、ボケ、ヤブコウジ など |
草 本 | リョヴノヒゲ、ヤブラン、キンラン、ギンラン、ジュウニヒトエ、ギボウシ、ニガナ、ホウチャクソウ、キツネノマゴ、タチツボスミレ、ホトトギス、リンドウ、ヤマユリ など |
動 物 相
鳥 類 | オオタカ、キジバト、アオゲラ、ヒヨドリ、メジロ、シジュウカラ、エナガ、ホオジロ、カシラダカ、シメ、カワラヒワ、ツグミ、シロハラ、オナガ、カケス、ムクドリ、ハシブトガラス、スズメ など |
蛾 と 蝶 | オオミズアオ、チャバネセセリ、ヒカゲチョウ、ゴイシシジミ、クロアゲハ、ルリタテハ、キチョウ、スジグロチョウ、ヤマトシジミ など |
主な 昆虫 | カブトムシ、コクワガタ、カナブン、ナナフシ、クツワムシ、ハヤシノウマオイ、エンマコオロギ、モリオカメコオロギ、アオマツムシ、カンタン、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、ニイニイゼミ など |
出典:平林寺禅寺・平林寺の自然と文化を守る会
新座市教育委員会
平林寺近郊緑地
保全区域
特別保全地区
平林寺近郊緑地保全区域及び近郊緑地特別保全地区は、平林寺及びその周辺の良好な緑地を保全するためにより指定された区域及び地区です。
近郊緑地保全区域内では、樹木の伐採、建築物の新築、宅地の造成などを行う場合は、事前に新座市役所への届出が必要です。
また、近郊緑地特別保全地区内では、上記行為については、新座市の許可が必要です。
出典:新座市みどりと公園課
埼玉県環境部みどり再生課
埼玉指定史跡
野 火 止 用 水
昭和19年3月31日指定
武蔵野のうちでも、野火止台地はとくに高燥な土地で、自然の水利には恵まれませんでした。川越城主松平伊豆守信綱は、私領であるこの地方を開発するため、江戸の上水道である玉川上水を完成した功績により、玉川上水から三割の分水許可を得て、明暦元年(1655)野火止用水を開削しました。工事は家臣の安松金右衛門に命じて行なわれ、当初東京都下の小平市小川町から志木市の新河岸川までの約25㎞について開削しましたが、のちに新河岸川に、いろは四十八の樋を架けて、志木市宗岡の水田地帯をうるおすようになりました。また、寛文3年(1663)、岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも用水堀を開削して引水しました。
幹線水路は、本流を含めて四流あり、末端は樹枝状に分かれています。支流は、通称「菅沢・北野堀」・「平林寺堀」・「陣屋堀」・と呼ばれています。
用水敷は、おおむね四間(7.2m)あり、水路敷二間を中にして、その両側に一間ずつの土あげ敷をもっています。
水路は、地形的に高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に果たした役割は、きわめて大きいものでした。
野火止用水の流れは、昭和37年・8年頃までは付近の人々の生活水として利用されていましたが、急激な都市化の影響により、水はしだいに汚濁し、流れに泳ぐ魚や用水で遊ぶ子供たちの姿をみることはできなくなってしまいました。そこで昭和49年度から、東京都と埼玉県・新座市で復原・清流復活・事業に着手し、本流と平林寺堀の一部を復原しました。
昭和58年3月31日
出典:埼玉県教育委員会
新座市教育委員会
埼玉県指定史跡
野火止用水
昭和19年3月31日指定
武蔵野のうちでも、野火止台地は特に高燥な土地で、自然の水利には恵まれませんでした。川越城主松平伊豆守信綱は、私領であるこの地方を開発するため、江戸の上水道である玉川上水を完成した功績により、玉川上水から三割の分水許可を得て、承応4年(1655)野火止用水を開削しました。工事は家臣の安松右衛門に命じて行なわれ、当初東京都下の小平市小川町から新河岸川までの約25㎞について開削しました。のちに新河岸川に、いろは四十八の樋を架けて、宗岡の水田地帯をうるおすようになりました。また、寛文3年(1663)岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも用水堀を開削して引水しました。
幹線水路は、本流を含めて四流あり、末端は樹枝状に分かれています。支流は通称「菅沢・北野堀」「平林寺堀」「陣屋堀」と呼ばれています。
用水敷は、おおむね四間(7.2m)あり、水路敷二間を中にして、その両側に一間ずつの土あげ敷をもっていました。
水路は、地形的に高いところを選んで堀りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に果たした役割りは、きわめて大きいものでした。
野火止用水の流れは、昭和38年頃までは付近の人々の生活水として利用されていましたが、急激な都市化の影響により、水はしだいに汚濁し、流れに泳ぐ魚や用水で遊ぶ子供たちの姿をみることはできなくなってしまいました。
そこで昭和49年度から、東京都と埼玉県・新座市で復原・清流復活の事業に着手し、本流と平林寺堀の一部に清流を復活させました。
平成元年3月
出典:埼玉県教育委員会
新座市教育委員会
埼玉県指定史跡野火止用水
野火止用水は、野火止台地開拓者の大切な飲料水として、承応4年(1655)に川越城主であった松平伊豆守信綱が家臣の安松金右衛門に命じ、玉川上水から分水し、開削した全長24㎞の用水路です。
300年以上の永きにわたり用水沿いの人々に利用され、昭和19年(1944)に埼玉県の史跡に指定されました。
埼玉県指定文化財
史跡 野火止用水
昭和19年3月31日指定
野火止用水は、承応4年(1655)に、川越藩主である松平伊豆守信綱により、武蔵野開発の一□として、野火止台地開拓のため必要とする生活用水の確保を目的として作られた用水路です。
用水は、多摩川群小川村(現、東京都小平市)から野火止台地を経て新河岸川に至るまでの全長約25㎞にも及びます。
松平信綱は、川越に入府以来、領内の新田開発を推進する一方、原野のままであった台地開発に着手して、承応2年、野火止台地に農家55戸を入植させて開拓にあたらせました。
しかし、関東ローム層の乾燥した台地は飲料水さえ満足に得られない土地であったため開拓農民の困窮は、はなはだしいものがありました。
承応3年、江戸幕府の老中職にあった松平信綱は、玉川上水を完成させて功績により、玉川上水から三割の分水許可を幕府より得て野火止用水の開削にとりかかりました。
工事は、家臣の安松金右衛門らに命じて、承応4年2月10日に始まり、約40日後の3月20日ころには完成したといわれています。
その後、平林寺堀、陣屋堀などの支流が作られましたが、豊かな水を得た土地の人々はこの工事に深く感謝して、野火止用水のことを「伊豆殿堀」とも呼びました。
平成2年12月
文化財を大切にしましょう。
出典:新座市教育委員会
新座市文化財保護審議委員会
本多の森のお花畑
~ お 願 い ~
この菜の花畑で4月に春まつりが開催されます。それまでの菜の花は摘み取らず、皆さんで菜の花の成長を温かく見守りましょう。
出典:新座市
ヤマ(雑木林)のモデル
市では、総合運動公園内緑地をヤマのモデルに位置付け、萌芽更新や緑地保全活動などを通して、雑木林の維持管理方法を紹介しています。
萌芽更新とは、太くなった樹木を切り、切り株から再び芽吹かせるもので、林を若返らせるには有効であるとされています。
出典:新座市 みどりと公園課
埼玉県指定文化財
史跡 野火止用水
昭和19年3月31日指定
野火止用水は、承応4年(1655)に、川越藩主である松平伊豆守信綱により、武蔵野開発の一□として、野火止台地開拓のため必要とする生活用水の確保を目的として作られた用水路です。
用水は、多摩川群小川村(現、東京都小平市)から野火止台地を経て新河岸川に至るまでの全長約25㎞にも及びます。
松平信綱は、川越に入府以来、領内の新田開発を推進する一方、原野のままであった台地開発に着手して、承応2年、野火止台地に農家55戸を入植させて開拓にあたらせました。
しかし、関東ローム層の乾燥した台地は飲料水さえ満足に得られない土地であったため開拓農民の困窮は、はなはだしいものがありました。
承応3年、江戸幕府の老中職にあった松平信綱は、玉川上水を完成させて功績により、玉川上水から三割の分水許可を幕府より得て野火止用水の開削にとりかかりました。
工事は、家臣の安松金右衛門らに命じて、承応4年2月10日に始まり、約40日後の3月20日ころには完成したといわれています。
その後、平林寺堀、陣屋堀などの支流が作られましたが、豊かな水を得た土地の人々はこの工事に深く感謝して、野火止用水のことを「伊豆殿堀」とも呼びました。
平成2年12月
文化財を大切にしましょう。
出典:新座市教育委員会
新座市文化財保護審議委員会
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