師走の寒空の下、北の丸公園から
皇居乾通り経由大嘗宮(仮設建物)を
見学し千代田区立スポーツセンターまでのウオーキング
吉 田 茂 像
古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉
昭和五十六年九月
舟越保武 作
安岡正篤 文
桑原翠邦 書
北白川宮能久親王銅像
北白川宮能久親王(1847年4月1日〈弘化4年2月16日 〉– 1895年〈明治28年〉10月28日)は、日本の皇族。陸軍軍人。幼名は満宮。最後の輪王寺宮として知られる。 伏見宮邦家親王の第9王子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇の猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
対墨日本人移住百周年記念
所在地 千代田区麹町1-2 (千鳥ヶ淵公園)
対墨日本人移住百周年記念
メキシコ国民より日本国民へ贈呈
1897 - 1997
作者:セバスティアン
作品名:「移住」
製作年:1997年
材質:スチールプレート
寸法:420×420×240cm
重量:1,000kg
楠公レストハウス
東京都が推奨する「東京食材使用店第1号」に登録された和食レストラン。「一汁三菜」形式の伝統的な日本食を提供。英語メニューあり。
出典:楠公レストハウス
馬場先門橋
内濠に架かり、丸の内二・三丁目の間から皇居正面に通じる土橋です。馬場先門は寛永6年(1629)に広島藩の初代藩主浅野長晟らによって造られました。門名の由来は、三代将軍徳川家光が門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を上覧したことから、朝鮮馬場の名が生まれ、馬場先の名が付けられました。橋の北側は馬場先濠、南側は日比谷濠です。日露戦争勝利の提灯行列が、この門にはばまれて大勢の死傷者が出たため、明治39年(1906)に枡形は撤去されました。現在は石垣の一部だけ残っています。
出典:千代田区役所
皇居外苑の見所1
●和田倉噴水公園
昭和36年に、今上天皇陛下のご成婚を記念して造られた大噴水を、皇太子殿下のご成婚を期に平成7年に再整備したものです。
周辺で働く人々の憩いのな場としても、親しまれています。
●楠正成公銅像
楠正成公は、今から700年ほど前の南北朝の時代に活躍した忠臣として名高い武将です。
本体の高さが4メートルあるこの銅像は、明治33年に住友家により寄贈されました。
皇居外苑の見所2
●二重橋
一般的には、皇居前広場から正門を経て宮殿へいたる濠に架かっている、「正門石橋」と「正門鉄橋」の総称です。厳密には奥のほうの橋を指します。
●桜田門
万延元年(1860年)、江戸幕府の大老井伊直弼が暗殺された事件の門で著名な門です。
現在の門は、関東大震災で破損したものを改修しています。
皇居外苑の見所3
●千鳥ヶ淵
上から見た時の姿が千鳥に似ていることから、この名がつけられたといわれています。
岸辺で咲く四季折々の花が、訪れる人を楽しませてくれます。
●田安門(国重要文化財)
江戸城の北部・田安台と呼ばれた場所に位置し、現存する門の中では最古のものです。寛永13年(1636年)の再建です江戸城 坂下門
坂下門は江戸城西の丸造営直後に築かれた門が坂下門。江戸時代には西の丸大奥に近く、西の丸の通用門として利用されていました。現在、西の丸は皇居となっているため、宮内庁の管理で、通常は立ち入ることができません。文久2年1月15日(1862年2月13日)、老中・安藤信正がこの門外で水戸浪士に襲われた「坂下門外の変」は有名。
出典:東京とりっぷ
諏 訪 の 茶 屋
諏訪の茶屋は、元々、明治45年(1912年)に、皇居内の吹上地区に建てられたものです。
その場所に、江戸時代に諏訪社があったことから、諏訪の茶屋という名前が付いています。
昭和43年(1968年)に現在の場所に移築されました。
二の丸雑木林
昭和天皇のご発意により、失われていく雑木林を再現しようと、昭和58年から60年(1985)にかけて造成されました。造成にあたっては、東京近郊の開発予定地にあった雑木林の表土を移したため、植物の種子や根、昆虫の卵、土の中の生物も一緒に運ばれ、早期に再生することができました。平成14年(2002)から雑木林としての管理を進め、大きくなりすぎた樹木を間引き、萌芽更新を行うとともに、林床の下草を刈って野草が生育できる環境を維持しています。
江戸城 平川門
太田道灌が江戸城を築いた15世紀には、江戸湾に面した現在の平川門周辺には、上平川村、下平川村という村があったのが平川門の名の由来です。太田道灌の時代から門が築かれていたと推測され、3代将軍・徳川家光の治世である1635年(寛永12)年、高麗門(第一門)、渡櫓門(第二門)という強固な枡形門のスタイルとなりました。
出典:東京とりっぷ
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