梅雨時の、雨雲におおわれた空模様。
越戸川の川沿から柿ノ木坂湧水公園~
新倉ふるさと民家園~下新倉氷川八幡神社~
成田山神護寺~武州白子熊野神社~
大坂ふれあいの森~新田坂の石造物群~
東武東上線成増駅までの散策ウオーキング
柿ノ木坂児童公園
市の花 〔さつき〕 つつじ科ツツジ属 | 市の花 〔いちょう〕 いちょう科イチョウ属 |
本州以南に分布。渓流で砂地の所を好み乾燥地にははえない常緑低木。幹は多く高さ0.3~1mの枝が横に広がる半円形の樹姿。葉は皮針形、花は枝先に単生し、ろうと状で紫紅色の5裂した花を咲かせ、花期は5~7月。 (昭和55年10月31日制定) | 中国原産。日本各地に分布。落葉樹高木。盆栽、食用、用材、幹高30~40m、径約5m、直立、整形樹、全株無毛、葉は長枝、互生し、短枝では束生、長柄。葉身は扁形。秋に黄葉する。雌雄異株。花は4月、種子は10月成熟。 (昭和55年10月31日制定) |
新倉ふるさと民家園
新倉ふるさと民家園は、和光市指定文化財「旧冨岡家住宅」の移築復元後、平成18年6月17日に開園しました。
この旧冨岡家住宅は、およそ300年前に創建されたと推定され、埼玉県内で最古の部類に入る歴史的価値の高い建造物です。東京外郭環状道路建設に際し、解体を余儀なくされましたが、所有者の冨岡氏から部材の寄付の申入れがあり、市は旧冨岡家住宅を移築復元しました。
現在は、新倉ふるさと民家園として一般公開しています。
民家園の敷地はおよそ2000平方メートル(約600坪)です。園内には茅葺き屋根を持つ「旧冨岡家住宅」をはじめ、潜り門・納屋風管理棟・蔵風ポンプ室等の建造物と、畑・池などがあります。
また、谷中川縁に自生していたヒロハアマナをはじめ、里山を意識した植栽、茅葺き屋根棟に植えられているアヤメ、池に生息するメダカなど、たくさんの植物や生き物が生息しています。
囲炉裏のある主屋に一歩足を踏み入れると、新倉地域をはじめ、和光の四季折々の暮らしぶりを体感することができます。
是非一度足をお運びください。
出典:和光市
景観重要建造物指定標識
指定番号 | 和光市指定第1号 |
指定年月日 | 平成26年1月1日 |
名 所 | 新倉ふるさと民家園 |
この標識は、景観法第21条第2項の規定により設置するものです。
下新倉氷川八幡神社
下新倉氷川八幡神社は、寛治5年(1091)に八幡社として創建、文禄3年(1594)に大宮氷川神社を相殿として勧請した伝えられます。江戸時代には下新倉村の鎮守社として祀られていました。
中世における新倉は、江戸時代に上・下に分かれ上新倉・下新倉の二村となった。分村の時期は定かではないが、地内の吹上観音堂に現存する元亀2年(1571)銘の鰐口に「武州新座郡下村」とあることから、既に戦国時代に実質上の分村が進んでいたと思われる。
当社は、そのうちの下新倉の地内に鎮座し、村の鎮守として祀られてきた。『明細帳』に「相伝八幡社は寛治5年辛未歳(1091)創立し氷川社は文禄三甲午年(1594)合殿に勧請す」と記されているように、当初は八幡社だけが祀られていだようである。『下新倉村誌』には「足立郡高鼻村氷川社ノ分霊ヲ相殿二合祀ス、降ツテ正保二乙酉年(1645)三月地頭酒井壱岐守地ヲ検シ賦フルニ神地二千六百六十坪ヲ以テス、明治元年別当東福寺ヲ廃シ更メテ祠守ヲ置ク」と記されている。
明治初年の神仏分離によって地元の組頭秀五郎が柳下矢柄と改名し、神勤することを品川県に願い出て許されている。なお、当社は昭和20年5月25日夜に飛来した米軍機B29の投下した焼夷弾によって焼失したため、戦後、白子小学校の奉安殿を本殿として移築し、更に平成8年5月に本殿・幣殿・拝殿を改築した。また、昭和4年には分村により東京大泉長久保地区に氷川神社を分祀している。(「埼玉の神社」より)
出典:猫の足あと
奉祝事業における建設のご案内
手水舎・神輿庫
(山車庫・外便所含む)
この度の天皇陛下御在位30年・皇太子殿下の天皇陛下御即位の奉祝記念事業として、手水舎・神輿庫(山車庫・外便所含)を建設する事になりました。
手水舎は、神社東鳥居を入り右側の狛犬と石灯籠の間に建設します。
又、神輿庫(山車庫・外便所)等は、現在使用している建物は取壊し、神社西鳥居を入り現在在る右側の第二山車庫外便所の場所に新たに建設を致します。
氏子の皆様には改めて周知させて頂き、来年度に奉賛金を賜りたく思いますので何卒よろしくお願い致します。
神輿庫(完成予想図) | 手水舎(完成予想図) |
尋常小学 東輝学校 跡
武州白子熊野神社
熊野神社は、白子の鎮守さまとして栄えてきた。発祥は不明であるが、社伝によると、およそ1千年前といわれている。
祭神は伊弉冉命、健御名方命、速須佐男命、速玉男命、事解男命、倉稲魂命とされ、また、境内神社として、冨士嶽神社、國平神社がある。
中世、熊野信仰は、全国的に武士や民衆の間にひろまった。熊野那智大社(和歌山県)に伝わる「米良文書」の中の「武蔵国檀那書立写」には、多くの武蔵武士とともに「しらこ庄賀物助、庄中務丞」の名があり、和光市域の白子に居住していた領主にも、熊野信仰が伝えらていたことがわかる。
平成7年1月
出典:埼玉県
和光市
熊野神社御由緒
和光市白子2-15-50
□御縁起(歴史)
天平宝字2年(758)、朝廷は我が国に渡米した新羅の僧たちを武蔵国に移して新羅(志楽木)を作った。白子の地名は、この新羅から転訛したものといわれており、戦国時代の文書の中には、「白子郷」の名が見える。
熊野神社は、白子の鎮守さまとして栄えてきた。発祥は不明であるが、社伝によるとおよそ一千年前といわれている。祭神は、伊弉冉命、健御名方命、速須佐男命、速玉男命、事解男命、倉稲魂命とされ、また境内神社として、冨士嶽神社、國平神社がある。
中世、熊野信仰は、全国的に武士や民衆の間に広まった。
熊野神社が、いつの時代にこの地に祀られたかは想像の域を出ないが、熊野信仰の本拠である紀伊国(現和歌山県)那智山に伝わる那智中世文書の中にある天文年間(1532-54)ごろの「武蔵国檀那書立」の中に「しらこ庄 賀物助 庄 中務丞」という記述があり、当時の白子ではかなり熊野信仰の布教が進んでいたと推測される。
□ 御祭神
・伊弉冉命 ・健御名方命 ・速須佐男命
・速玉男命 ・事解男命 ・倉稲魂命
□御祭日
・元旦祭(1月1日) ・節分祭(2月3日)
・祈念祭(2月17日) ・例大祭(10月3日)
・新嘗祭(11月23日) ・大 祓(12月31日)
熊野神社
熊野神社は、白子の鎮守さまとして栄えてきた。発祥は不明であるが、社伝によると、およそ一千年前といわれている。
祭神は、伊弉冉命、健御名方命、速須佐男命、速玉男命、事解男命、倉稲魂命とされ、また、境内神社としては冨士嶽神社、國平神社がある。
中世、熊野信仰は、全国的に武士や民衆の間に広まった。熊野那智大社(和歌山県)に伝わる「米良文書」の中の「武蔵国檀那書立写」には、多くの武蔵武士とともに「しらこ庄賀物助、庄中務丞」の名があり、和光市域の白子に居住していた領主にも、熊野信仰が伝えられていたことがわかる。
平成7年1月
出典:埼玉県
和光市
はじめに二拝 | 次に二拍手 | おわりに一拍手 |
姿勢を正し 深いおじぎを 二回します | 胸の高さで 手を合わせ 二拍手をします | もう一度深い おじぎをします。 |
神様に感謝の気持ちでお参りしましょう
発見・歴史ポイント
湧き水の町「白子宿」
お江戸日本橋から川越まで、川越街道の宿場として栄えた。江戸時代の紀行文に、「此しらこ宿の左右には清潔の水漲り流れて潤沢なるは、尤浦山し」とあります。
石垣湧水道など湧水利用の文化があり、白子は“自然と歴史の交差点”と言われるゆえんです。湧き水と共に残して行きたい和光の宝です。
出典:NPO法人和光・緑と湧き水の会
大坂ふれあいの森
◆大坂ふれあいの森は、和光市が地権者より借地した約1400 ㎡の
市民緑地です。江戸時代の白子宿のはずれ、古の川越街道の急坂路のかたわらにあります。
◆美しい斜面林とその林床には、カタクリやイチリンソウなどの貴重な野草があり、湧き水に恵まれ、その湧き水をもたらす武蔵野台地の十数万年の地層を観察できる都会のオアシスです。
カタクリ | イチリンソウ |
白子・大坂ふれあいの森
陽光と せせらぎの音
森の里
まり子
白子・大坂ふれあいの森 武蔵野台地末端の斜面から湧き出す水とそれを取り囲む樹林地にはイヌシデ、ムク、などの樹木が茂り、カタクリ、イチリンソウ、キツネノカミソリなどの野生植物が咲く、春はウグイスなどの鳴き声が聞かれ、夏になると水辺にはオニヤンマやシオカラトンボが飛び交う光景が愉しめる(昔はホタルも沢山いた)。とても貴重で豊かな生態系が残された市民緑地です。
大坂ふれあいの森のあらまし
大坂ふれあいの森は四季を通して
貴重な生き物の宝庫です
◆豊かな落葉樹の斜面林のかたわらに、春はカタクリやイチリンソ
ウ、夏はキツネノカミソリが花を咲かせ、湧き水の流れにはサワ
ガニやヘビトンボ、また多くのチョウやトンボが見られます。
ぼくたちが案内するよ | オニヤンマ | ヘビトンボ | ゴマダラチョウ | サワガニ |
周囲の環境
◆大坂ふれあいの森は、和光市と東京都の境を流れる白子川左岸に連なるグリーンベルトの中核です。
◆市内の越後山や牛房八雲台特別緑地保全地区、百段階段横の白子の滝付近、当地、白子宿特別緑地保全地区、熊野神社、地福寺、成田山神護寺と、第五小学校から白子小学校に連なる緑地です。動植物の移動を助け、通勤や通学、散策のコースとして和光市の生活環境を守る大切な緑と水の連なりです。
◆今でも湧き水を集めて配水するタンクが街角にあり、湧き水の文化が継承されています。この豊富できれいな湧き水が流れる街づくりを進めたいものです。
皆さんの住む大地の成り立ちや
湧き水の仕組みを見ることができます
武蔵野台地の地層のあらまし | 地層を見る | 地下水の高さを知る井戸 |
◆南西側の崖地には、関東ローム層が見られ、その下部に武蔵野れき層、また、崖地の下には小さな井戸があり、溜まった水の水面は地下水の高さを示しています。地下水は湧き水の源です。
近くの富澤湧水では、水を通しやすい武蔵野れき層の下に水を通しにくい粘土質の東京層があり、れき層の下部から湧き水が流れ出ている様子や湧き水の仕組みが良く見えます。
◆東京層は数十万年前にこの地が浅い海であった場所にできた地層、武蔵野れき層は十数万年前に古多摩川が多量の石を運んできた地層、関東ローム層はその後の時代に関東西部の箱根や富士などの噴火の火山灰が積もった「赤土」の地層です。大坂ふれあいの森の関東ローム層の中に見られる厚さ約20cm の黄色の地層は、約六万年前の箱根の大噴火によるものとされています。ここは地学の標本のような大変貴重な自然なのです。
出典:和光市
名称 大坂ふれあいの森
~湧き水と貴重植物をはぐくむ森~
ここは、市民の皆さんが、身近に自然にふれあえるよう、市が地主さんから「市民緑地(ふれあいの森)」としてお借りしています。
この市域は江戸時代に川越にいたる街道の宿場町として栄え、武蔵野台地の斜面から湧き出る湧き水がみられ、それを取り囲む樹林地には、イヌシデ、ムクなどの樹木がしげり、カタクリ、イチリンソウ、キツネノカミソリなどの野生植物が群生し、夏には水辺にオニヤンマやシオカラトンボが飛び交うなど生き物とふれあう場として、都市近郊には大変重要で、豊かな生態系が今でも残っています。
この身近な自然に親しめる「ふれあいの森」を大切にしましょう。
1.緑地内の樹木や施設を大切にしましょう。
2.ゴミは持ち帰りましょう。
3.他人の迷惑になる行為はやめましょう。
4.緑地内での火の使用はやめましょう。
出典:和光市
白子川
東京都練馬区東大泉の区立大泉井頭(いがしら)公園から始まり、練馬区西大泉、大泉学園町、大泉町、土支田、埼玉県和光市南、白子、下新倉、板橋区成増と流れ笹目橋付近の板橋区三園で新河岸川に合流する。
井頭公園より上流は西東京市管理下の水路敷で新川と呼ばれ、東京大学の田無演習林(試験地)付近に発し保谷庁舎周辺を経るが、ほぼ全域が覆蓋され一部は歩道となっている。 柳瀬川、黒目川などと並び、現在より北東側を流れていた多摩川の旧流路、古多摩川の名残の河川であると考えられている。
中流域までは湧水が豊富で透視度も高く、上流域にはカワセミも棲息している。 ただし、川越街道を過ぎて下流域に入ると一気に水質が悪化し、腐敗した底泥が水面に浮上して漂う酸欠状態となる(東京都の水害対策河川改修により、河底を約2m掘り下げたため)。
新田坂の石造物群
この案内板の前の坂道は、江戸時代の川越街道です。板橋宿の平尾(板橋三丁目)で中山道と分かれた川越街道は、上板橋や下板橋の宿を経て川越城下へ通じていました。街道はこの付近で白子川を作る谷へ下りるために急坂となり、新田坂と呼ばれていました。
ここに保存されている石造物四基は、新田坂周辺から集められたものです。
道祖神は、区内唯一のもので、文久3年(1862)に建立されました。もともとは、八坂神社の入口付近にありました。
常夜燈は、文政13年(1830)に建立されたもので、成増2丁目34番地の角に立っていたようです。「大山」と刻まれていることから道標も兼ねていたのでしょう。川越街道と分かれて南へ向かう道は、土支田方面へ通じていました。
稲荷の石祀と丸彫りの地蔵は造立年代は不明ですが、どちらも大切に保存されています。
昭和59年度、四基の石造物は区の有形文化財に登録されました。
平成11年3月
出典:板橋区教育委員会
成増地区の文化遺産
成増地区の文化遺産
歴史のある道祖神や子育て地蔵尊をお参りして頂き有難うございます。
気持ちよく参拝できますよう清潔活動をおこなっておりますが一部の方のタバコや空き缶・ごみの投げ捨てがあります。
皆様でくつろげる憩いの場所としてゴミ等捨て無い様ご協力とご理解をよろしくお願い致します。
出典:成増第二町内会
新田坂史跡保存会
皇太子殿下御降誕記念
(国旗掲揚搭)
昭和8年12月23日
帝国在郷軍人赤塚分会第6班
板橋区青年団赤塚分団
成増2支部
上記記載がされております
出典:成増新田坂史跡保存会
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